古今短編詰将棋名作選
その3 昭和初期(昭和20年まで)
解 説 村 山 隆 治
第27番 丸山正為 | 第28番 酒井桂史 |
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第29番 杉本兼秋 | 第30番 土屋健 |
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昭和の初期から大東亜戦争の末期までの詰将棋界は、当時松本市で発刊されていた、『将棋月報』という詰将棋専門誌が牛耳っていたと云っても過言ではあるまい。 そしてその中から幾多の俊才が芽生え、抜群の才能を惜しまれつつ天%していった。曰く、酒井桂史、藤井朗、岡田秋霞、佐賀聖一、北村研一、有馬康晴らである。また朝日新聞紙上で活躍した、アブリ出し図式の渡辺進という青年も、忘れられない人である。 これらの俊才が、私の詰将棋における恩師である、土屋健、里見義周の両氏とともに、今日の隆盛を誇っている昭和詰棋壇の基礎を開拓したのである 現代の若き詰将棋作家達は、”温故知新”という論語を充分に咀しゃく(※)して、先達の作品を鑑賞して欲しいと思っている。楽しませる作品の見本でもあり難業苦行の足跡でもある。 ◇第27番 丸山正為作(7手詰) (手順省略) 「将棋イロハ字詰図」の作者で有名な氏は、号を明歩と称す。これば関根13世名人より命名されたものである。大正末期より昭和10年頃まで、「将棋月報」で活躍され、その功績は大きい。晩年「盤駒の囁き」と題する将棋一代記を刊行された。まことに立派な本であり、氏の偉大さが偲ばれる。 ◇第28番 酒井桂史作(15手詰) (手順省略) 氏は昭和の初期より月報誌上で活躍され、その趣向は斬新奇抜であり、昭和の看寿と賞讃された。本局、最も都合のよい位置に龍を誘導するまでの、駒の打捨てに味があり、まことに骨っぽい短編。野武士的感触が強い。 ◇第29番 杉本兼秋作(15手詰) (手順省略) 昭和13年に「白翠選図集」を上梓した氏は、丸山、田辺、里見、土屋の諸氏と昭和詰棋界の礎を開拓して呉れた重鎮である。本作、初手2三桂が誘い手であるが、4五角のとき歩の中合いで不詰とは、いかにも憎い作。 ◇第30番 土屋健作(15手詰) (手順省略) 氏の健はペンネームであり、本名は杳といった。伊豆の大仁に住んでいたので伊豆彦というペンネームも、よく使用していた。昭和33年秋の狩野川台風により、一家全員が犠牲になった 「図式習作集」の著書がある。 |
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第31番 塚田正夫 | 第32番 三上毅 |
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第33番 有馬康晴 | 第34番 里見義周 |
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第35番 岡田秋霞 | 第36番 大井美好 |
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◇第31番 塚田正夫作(13手詰) (手順省略) いかにも洗練された塚田流の小品。氏の五、六段時代の作品であるが、近年出版された「塚田詰将棋代表作」にも収録されている。初手8四桂の誘い手も見せているが、9三玉で駄目。昭和10年頃の塚田流という点が面白い。 ◇第32番 三上毅作(15手詰) (手順省略)※3手目歩合は早詰注意 月報誌上で活躍された詰棋壇の大先輩である。とりつきにくい格好だが、3三歩から5三馬が判明すれば早い。 ◇第33番 有馬康晴作(15手詰) (手順省略) 小説家有馬頼義の兄である氏は、伯爵有馬頼寧の御曹子であった。生来病弱であり、常に熱海の桃山別荘で療養していた。「詰将棋吹き寄せ」「詰将棋づくし」の著書がある。また春画の蒐集家としても有名であった。 ◇第34番 里見義周作(13手詰) (手順省略) 小学生の頃より詰将棋を創作していた氏は、関西新進棋士奨励会で当時の大山康晴少年と、香を落として三勝一敗と聞いている。詰将棋の理論家でもあり、作品集「斗魚」著書あり。現在(※)は宣愁と号し俳句作家の主宰。 ◇第35番 岡田秋霞作(9手詰) (手順省略) 昭和16年頃、土屋健氏を主宰にして、「図研会」なる詰将棋作家集団を形成した。その会員の氏は、趣向、構想ものの創作に長じ、幾多の佳品を発表し好評を博した。本局なども、それぞれ2枚づつ駒を使用した趣向作であり、まことに楽しい小品である。 ◇第36番 大井美好作(15手詰) (手順省略) 詰将棋界における懐かしい方の一人である。棋歴は古く、終戦直後に塚田名人が著した「詰将棋名作選」にも、氏の作品が掲載された。本局はその一題である。飛筋を風通しよくしておいて、2二銀成とする所に面白さがある。 |
2006年5月29日 更新