阪神なんば線(西大阪線延伸線)の沿革

 

 阪神電鉄の輸送量は1991年を境に減少傾向が続いています。特に、震災後の数年でピーク時の4分の3に減少しており、かなり深刻な状況になっています。タイガースの好調により甲子園球場の入場者数が大幅に増加し、それに伴って輸送量にも良い影響を与えていますが、減少傾向の歯止めにまでは至っていません。甲子園球場の利用者はあくまでもおまけであり、日常において、通勤・通学や買物等での利用を増やす必要があります。とは言え、平行するJR神戸線の利用者数も停滞しており、少子化やリストラによる雇用の減少、更にはマイカーの利用が以前にも増して増えている現状を踏まえると、削れるところは削る一方で、打開策を遂行する事が必要になってきます。この度、延伸開業した阪神なんば線(西大阪線延伸線)が正に打開策と言えます。

 阪神なんば線の元となる旧西大阪線は元々は、カーブが多い阪神本線に代わる阪神間直通輸送のために計画された別線高速線の一部として尼崎〜伝法間が開通し、その後今の千鳥橋付近から梅田に至る路線が考えられていました。

 戦後になり、各私鉄が挙って都心乗り入れを計画し、阪神は近鉄と共に大阪高速鉄道を設立し、野田〜上本町間の建設に動きましたが実現に至らず、その後計画を再度変更し、阪神は伝法線を難波まで延長し、同じく上本町〜難波間を延長する近鉄と相互乗り入れする事になりました。阪神は1964年に西九条まで延長し、翌年には西九条〜神戸元町間の特急(西大阪特急)を昼間のみ運転し、その後、更に九条までの延長に取りかかりましたが、地元住民の

反対によって断念しました。一方の近鉄は1970年に難波延長線(難波線)が開通し、阪神電鉄に免許が

与えられている難波以西の数百メートルを折り返し線に使用しました。対して、阪神は西大阪線建設の

理由にあった本線の混雑緩和が車両の大型化により達成されつつあった事や、1970年以降は利用者が

横這い傾向となったこと、オイルショック等の不況や建設費の高騰、等から建設を見合わせる事になりました。

 ところが、1990年代に入り、大阪ドームや湊町の再開発計画、更に大阪湾岸の開発が相次いで計画され、

その輸送ルートとして再び脚光を浴びることになりました。当時のお役所の考えでは、2005年までに整備が

妥当な路線として西大阪線が挙げられ、阪神電鉄としても高騰した建設費を償却できるだけの新たな補助が

できれば建設を再開しようという考えになり、再着工は時間の問題と思われました。しかし、1995年の阪神・

淡路大震災で阪神電鉄は膨大な被害を被り、全線復旧後も先に復旧したJRにかなりの利用者を奪われる

事となり、単独での事業化は困難な状況に陥りました。

 その後、数年が経ち、大阪市がオリンピックを誘致する事になり(これは失敗に終わる)、大阪ドームの

完成や神戸方面から大阪ミナミへ直通する唯一のルートとして重要路線と考えられ、上下分離方式により

建設されることが決定、阪神電鉄と大阪市・大阪府が50%ずつ出資する西大阪高速鉄道(株)が設立され、

着工が許可され、それに伴う本線〜西大阪線直通化工事(乗り継ぎ円滑化事業)として尼崎駅の改良が

着工されて現在に至っています。延長線工事は平成15年度に着工され、起工式も行われています。

 尚、九条の一部住民の方々がまたもや反対運動を起こされている様です。今回は、表面上は工法の

問題(開通は賛成だが、九条駅西側の高架区間を地下化せよ、という非常に無謀な要望)と主張されて

いますが、そのために工事認可の取消要求を裁判所に訴えており、これは事実上の開通反対と言っても

過言ではありません。建設予定の道路状況や、中央大通り・地下鉄中央線の騒音を考えれば、渋滞や

騒音公害といった理由による反対は理解できません。いずれにせよ、起工式も終わり、いよいよ着工に

至るわけで、阪神にとっては勿論、地元にも大阪にも多くの利益・利便をもたらす西大阪延伸線の

早期開通を願って止みません。

 

 西大阪線延伸線開通時のダイヤ予想

 西大阪線延伸開通時の車両予想