正しい日本語
平成2411月20日
近頃思うこと
最近TVを見ていて、大変気になることがあります。それは、出演している芸能人を初めとしてアナウンサーの日本語が、エッ!と思うような間違いをしているように思うのです。
「おまえは、そんなに人の批判が出来るほど正しい日本語を使っているのか!」と言われれば、「ごめんなさい」と謝らねばなりませんが、それでも「これで良いのかなー」と思うのです。
気になる言葉の一つは、“が”の使い方です。 今更私が解説するような事ではありませんが、“が”は、前に来る言葉・・主語を特定し、強調する助詞です。
例えば、「私が、書きます。」は、「私」を確定的に強調します。 その“が”の何が気になるかと申しますと、何でもかんでも“が”で表現する人が増えているように思うのです。
例えば、「本が売っています。」という表現です。
一見何の問題も無いように感じるかも知れません。しかしTV画面では、アナウンサーが新しい本を手に持って、その本の紹介をした後で「本が売っています。是非お買い下さい。」と言うのです。 文字で表せばその間違いは、小学校2年生程度の国語力があれば判ります。
この場合「本が売られています。」もしくは「本は、本屋で売っています。」が、普通に使われる言葉だと思うのです。 「本が、売っている。」は、童話の世界で目鼻を付けて擬人化された“本”が居て、「本さんが、パンを売っていました。」というのなら判る表現です。
二つ目は、最近よく聞く、気になる表現です。「・・・・して貰ってイイですか。」という表現です。 最近は、アナウンサーも大変よく使います。この言葉を、相手の立場と関係なく使っているようです。日本語では、会話をする相手との関係や状況に応じて尊敬語、丁寧語、謙譲語と使い分ける必要があります。
この「・・・して貰ってイイですか。」は、尊敬語?丁寧語?謙譲語?それとも全く別のジャンルの表現なのでしょうか。 確かに、この表現で多くの場面をカバーできる便利な表現なのかも知れません。
もう一つ、この表現は、相手に了解を得ようとしているのでしょうか。それとも「行動した結果については、貴方が了解したのだから私は知りませんヨ。しかし、私の要求通りに行動して下さい。」と暗に強制しているのでしょうか。いずれにしても、大変慇懃無礼な表現ではないでしょうか。
“言葉は、生き物だから時代と共に変わって行くのが当たり前”というのを否定はしません。 しかし、“言葉”は、その国、民族のアイデンティティ(identity)の基盤となるものだと思うのです。
言うまでもなく今日の日本人は、長い歴史を経て今日を生きています。
その長い歴史を積み重ねる上で“日本語”が果たした役割は、計り知れないでしょう。とは言え、確かに言葉は変化します。しかし、助詞の使い方はそんなに変化するとは思えません。
何故なら助詞の使い方で、言葉の意味するところが全く変わってしまう可能性が大だからです。 相対の会話なら、多少の間違いをその場の雰囲気や会話の流れで、聴く方が推測して解釈する事も可能でしょう。
しかし、厳正さを要求される会話や特に文章では、助詞の使い方一つで全く意味が違うということもあり得るのです。 その端的な例が、政治家の発言や霞ヶ関文学と言われるものです。
政治家の発言では、助詞の使い方一つで役職を追われることさえもあります。霞ヶ関文学では、“て にをは”一つで、法律の効力を変えてしまうと言われます。 先述しました通り“が”の持つ意味も“て にをは”以上に大切だと考えます。
二番目の「・・・して貰ってイイですか。」は、使う側にとっては大変使い勝手がよい表現だと思います。相手と自分の関係や状況を考える必要が無く、しかも最終判断を相手に任せてしまうのですから使う側からすれば大変都合がよいと言えます。
一歩譲ってこの表現を使うとしても、相手によって「・・・して頂けますでしょうか。」、「・・・して下さいますか」と言った程度の使い分けをする必要があると思うのです。 こうした表現の違いで、聴く方は相手との距離や立場を計ることが出来ますし、相手の自分への本意を感じることも出来ます。
さて、こんな事を長々と申しあげたかと言うと、最近起きている諸々の出来事を見ていて「これからの日本はどうなるのだろう。」と不安になります。
国内では、連日殺人事件が起きています。それも「こんな事で人を殺さねばならないのだろうか。」と思うような些細な原因で、いとも簡単に殺しています。政治は、政治家達だけのために右往左往しているようにしか見えません。
経済面でも、日本を代表する企業が苦戦しているニュースばかりのような気がします。国際面では、領土問題を初めとして何となくイライラするような出来事ばかりが報じられます。
「こんな日本で私の子供達や孫達が、これからを生きて行くために何をしてやれるのだろう。何をしてやらねばならないのだろう。」と考えました。色々と思いを巡らせたのですが、これと言って思いつかないのです。そんな時、先述の“日本語”が大変気になっていたことに気が付きました。言葉は、その国、国民のアイデンティティの最も大切な基盤になるものです。
その大切な“言葉”を、最近あまりにも雑に扱いすぎではないかと感ずるのです。 大切な助詞をないがしろにするから、正確にお互いの意思が正確に伝わらないのではないだろうか。
敬語が使えないから、社会秩序やお互いを尊敬し認め合うことが出来ないのではないだろうか、と漠然と考えたのです。 昭和40年代の日本映画を見る機会がありました。 そこに描かれていた家族は、一家の長たる主人に対して奥さんは勿論子供達もキチンと敬語を使っていました。 そこでの会話を聞くだけで、家族間でのそれぞれの位置付けや尊敬の程度が判るのです。
家庭は、社会の最小単位だと言われます。「家庭がキチンとしていれば社会もキチンとする。」と教えられました。 そこには、日本人が長い歴史の中で作り上げてきた「日本人の文化」更には、「日本人の矜持」と言ったものさえ感じたのです。
「敬語だ何だとうるさく言うのは日本だけで西欧にはそんな面倒な事は無い。」という人がいます。 本当にそうでしょうか?英語に堪能な方は「そんなことはない。英語にも敬語はある。」とおしゃいます。
1960年代の名作映画に“My Fair
Lady”というのがありました。 余り育ちの良くない花売り娘をオードリー ヘップバンーが演じていました。 この花売り娘を上流階級の舞踏会に出すために色々と教育をして行くのですが、ヒギンズ教授は行儀作法と言葉を徹底的に教えていました。
詰まり、どんなに着飾ってもマナーが悪いのと“上流階級の会話”が出来ないと上流階級の仲間には入ることが出来ないのです。 最近、アメリカで30年間生活をしてこられた方にお聴きしましたが、「アメリカは階層社会で、キチンとした家庭での躾は厳しく言葉使いもうるさいです。」とことでした。 躾には、当然言葉使いや道徳も含まれます。
近年何もかもが、ゆるーい時代になってしまったと言われます。 その原因の一つが“言葉”だと思います。 話しがあちこちして恐縮ですが、私の弟が劇場映画やTV映画の翻訳と字幕やナレーションを付けたりする仕事をしています。
翻訳やナレーションを付ける会社の社員の募集をすると「私は、帰国子女で英語はネイティブです。」とか「トイフルは**点です。」という方が沢山応募して来られるのだそうです。 しかし、「英語は堪能でも日本語がチャンと使えない人が大変多い。」のだそうです。
ご存じの通り映画の字幕は、だいたい14文字でその場面の雰囲気や会話の内容を正確に伝えなければなりません。 その為、画面の人が話している言葉を直訳してばかりでは字幕にはならないのです。 判りやすいしかも正しい日本語力、更に豊富な語彙力が要求されます。
「言葉は、その国、国民のアイデンティティだ」と申しあげました。 キチンとした日本語を学ぶことは、社会秩序を身につけることだけではなく、自らが日本人であることを自覚し、誇りを持つことに繋がります。 日本人が、国際社会で活動しなければならない時代になっています。 企業によっては、社内共通語を英語にしたところもあります。 英語で話し、書くようになれば自ずと英語的発想が身に付くでしょう。 だからといって日本人がアメリカ人になるわけではありません。
むしろ日本を離れて行くほど日本人を意識せざるを得なくなります。 ならば日本人であることを自覚し、誇りを持って行動する事が国際社会で生きて行く基盤になると考えます。だから正しい日本語を勉強することが、より大切になるのです。
正しい日本語を学校で勉強する事は勿論大切です。 しかし、机上で勉強しても日常とかけ離れてしまっては直ぐに忘れてしまします。 日常の会話の中でさりげなく教えて行く必要があると思うのです。
本当は、子供達が最も長くいる学校でそれをして貰いたいのですが、近年学校では生徒と先生が“友達”関係になってしまっていて敬語どころかお互いが“ため口”で会話をするのが当たり前になっているようです。ならば家庭での日常会話の中で教えて行かねばなりません。
子供の躾は第一に親の仕事ですが、親より少し距離のある“爺ちゃん、婆ちゃん”の方がさりげなく、諭しながら子供に教えることが出来るのではないでしょうか。 既にお孫さんを持っている方、これから“じじ、ばば”になる方が孫達への将来へのプレゼントとして、気軽に取り組んでみられては如何でしょうか。
もう一つ、最近領土問題がクローズアップされています。 特に韓国との竹島、中国との尖閣諸島、ロシアとの北方領土問題です。 これらの問題を論ずるとき“歴史問題”が必ず出てきます。 正しいかどうかは別として、韓国、中国、ロシア各国の人々はそれなりの歴史観を主張します。
それに比べ、日本人特に若い人達には日本人としての歴史観が無いように感ぜられます。 それは無理からぬ事で、学校で教え無いどころか高校卒業するまで現代史には触れることもないようです。 古代から近代までを勉強することは、自らのルーツを知る上で大切なことですがそれと同じぐらい現代史を学ぶことも大切なことだと思うのです。
私が学校教育を受け始めた頃は、一億総懺悔の時代と言っても良い時代でした。 太平洋戦争への贖罪意識が強く働いていたように思うのですが、未だに学校教育ではその雰囲気を引きずっているように見えます。 こうした雰囲気が根底にあって、言葉の乱れにも繋がっているのではないかと考えるのは考えすぎでしょうか。
最近は、昭和史、戦後史に関する書籍が沢山出ています。歴史の解釈には、一つの出来事でも色々な解釈があります。 出来るだけ多くの視点から見て自分なりの歴史観を養い、必要以上に過大評価することなく、ましてや卑下したりすることなく出来るだけ正しい評価が出来るようになりたいと考えます。
正しい日本語を学ぶ、出来るだけ客観的な歴史観を養う事で「日本人としてのアイデンティティを再認識」し「日本人としての矜持」を取り戻す事が、我々の子供や孫にしてあげることの出来る大切なことの一つではないかと考えます。
以上