古今短編詰将棋名作選
その1 江戸時代
解 説 三 木 宗 太
第1番 初代 大橋宗桂 | 第2番 二代 大橋宗古 |
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第3番 三代 大橋宗桂 | 第4番 初代 伊藤宗看 |
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詰将棋の歴史において、江戸時代は創草期(※)であると共に、黄金時代でもある。初代宗桂を原点として、現代なら不完全とされる駒余り物から出発した詰将棋も、その後二百年の歴史の間に不成、遠打、煙、長手数、鋸引などの趣向や構想物から、曲詰、裸玉などの形式趣向物に至るまで、詰将棋の基本骨格はほとんど開拓し尽くされた。 江戸時代の部では、それぞれの時期に活躍した作家の短編代表作を通してこうした江戸詰将棋の流れを感じ取ることができるように、一人一局年代順(作品発表棋書発行順)配列で構成した。従って、短編の傑作を客観点に選んだ昭和戦後編とは、若干ニュアンスの違った選局となっている。 なお紙面(※)が非常に限られているため、出展の表示方法は最もポピュラーな呼称を採用し、それに関する解説は割愛させて戴いた。 ◇第1番 初代大橋宗桂作(15手詰) (手順省略) この作品が傑作かどうか詮索するのは当らない。詰将棋というものが存在しなかった当時、実戦の終盤をテーマとした一種のパズルを考案したこと自体を高く評価すべきである。初代宗桂は慶長17年に本因坊算砂より将棋所を譲られ、初代名人を唱えた。 ◇第2番 大橋宗古作(15手詰) (手順省略) 宗古は、桂香図式を好んで作図している。駒余り作品の多い中で、本作は数少ない短編完全作である。宗古は初代宗桂の嫡子で、寛永11年に父宗桂の没後二世名人を襲名した。 ◇第3番 大橋宗桂作(11手詰) (手順省略) 二枚角の打捨てから2五桂を作るという構想を、自然の実戦形で美しく表現した宗桂らしい作品。三代宗桂は宗古の嫡子。七段。 ◇第4番 初代伊藤宗看作(11手詰) (手順省略) 駒余りは不完全という思想が定着したのは、この初代宗看の時代からのように思われる。それと同時に詰将棋の中に何らかの構想が描かれ出したのもこの頃からで、本作は途中無仕掛という不利感を巧みに図式化した好作である。初代宗看は宗古の女婿で、紹尊真甫、是安との争い将棋は有名。承応3年から約35年間、三世名人として棋界を統率した。 |
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第5番 五代 大橋宗桂 | 第6番 望月仙閣 |
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第7番 二代 伊藤宗印 | 第8番 作者不明 |
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第9番 三代 大橋宗与 | 第10番 久留島喜内 |
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◇第5番 五代大橋宗桂作(11手詰) (手順省略) 詰将棋の流れはこの頃から盤面いっぱいを使った構想物と、実践の延長とは無縁な趣向物の二つが派生してくるこの作品は前者に属し、合駒効かずの角遠打を巧みに表現している。五代宗桂は初代宗看の実子。大橋家の養子となり、元禄4年に四世名人を継いだ。 ◇第6番 望月仙閣作(11手詰) (手順省略) 「象戯記大全」は当時の実戦集であるが、巻末に10局の詰将棋を掲載しており、本局はその一つ。当時の詰将棋の趣向的流れを象徴する作品で、盤面四桂の美しい駒配りと手順の妙は傑作の名に恥じない。 ◇第7番 二代伊藤宗印作(15手詰) (手順省略) 攻防とも緩みのない応酬は現在でも十分鑑賞に耐える。初代宗桂、宗古の創草期(※)から、詰将棋が一つの完成の域に近付いたことを示している。二代宗印は初代宗看の養子で、正徳3年に五世名人を襲名した。 ◇第8番 作者不明(15手詰) (手順省略) 有名な中合物一号局。出典の「象戯力草」は初代宗桂の作品集であるが、本局はそれ以前の宗桂作品集にはなく、宗桂の遺作ともいわれている。ともあれ、盤面の成桂に江戸時代の香りが感じられる。 ◇第9番 三代大橋宗与作(13手詰) (手順省略) 傑作集には若干荷が重いが、数少い(※)宗与の自作と思われるものの中から選んだ。大橋分家三代目の宗与は初代宗桂の曽孫に当り、75才の高令で六世名人になった。 ◇第10番 久留島喜内作(11手詰) (手順省略) 作者の久留島喜内は伝不詳。作品集の「将棋妙案」は享保年間に出版されたと推定される。喜内の作品はどれを取ってもスマートな現代感覚にあふれており、この作品も、簡素な構図からのパズル的手順は、作者の鋭い詰将棋感覚を十分伺わせる。1二香を省いた図が古作として伝えられている。 |
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第11番 土屋好直 | 第12番 三代 伊藤宗看 |
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第13番 添田宗太夫 | 第14番 伊藤看寿 |
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第15番 八代 大橋宗桂 | 第16番 徳川家治 |
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◇第11番 土屋好直作(15手詰) (手順省略) 「象戯手段草」の作者は伊野部看斉とも土屋相模守ともいわれており明らかでないが、その作品はなかなか格調が高い。本作もその例にもれず、四枚の連続捨駒から攻方二枚の詰上りに至るまで、寸分の緩みも感じさせない。 ◇第12番 三代伊藤宗看作(11手詰) (手順省略) 三代宗看の作品としてはいささか物足りないかも知れないが、中編難解構想物を得意とした宗看の片鱗は伺い知る(※)ことができよう。三代宗看は二代宗印の次男で、享保13年に23才の若さで名人に推挙された。碁将棋の席次争いや立摩との争い将棋など話題も多い。 ◇第13番 添田宗太夫作(15手詰) (手順省略) 詰上り一の字の一号局。実戦の延長として出発した詰将棋を、形を楽しむパズルにまで展開したという点で詰将棋の歴史における「象戯秘曲集」のもつ意味は極めて大きい。宗太夫は越中富山城主松平長門守家中で棋級七段 ◇第14番 伊藤看寿作(13手詰) (手順省略) 享保の前に享保なく、享保の後に享保なしといわしめた、構想型詰将棋の頂点をなす看寿の、華麗、精緻、豪華といった形容詞がピッタリする珠玉短編作品である。看寿は三代宗看の末弟で、没後名人の称号を贈られた。 ◇第15番 八代大橋宗桂作(15手詰) (手順省略) 看寿によって頂点に達した構想物詰将棋の流れは、その後苦悩と模索の時代を送る。本局も飛不成連続三回の妙防手を披露するが今一歩脱しきれない。八代宗桂は三代宗看の次男で、享保9年に大橋本家の家督を継ぐ。八段。 ◇第16番 徳川家治作(15手詰) (手順省略) 徳川十代将軍家治公が棋級七段を唱え、将棋を愛好してくれたことは、私達将棋ファンの喜びである。本局は飛不成だけの凡作ともいえるが、一方で当時唯一絶対の権力者の、遊びの中のおおらかさを感じ取ることができる。 |
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第17番 九代 大橋宗桂 | 第18番 桑原君仲 |
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第19番 作者不明 | 第20番 作者不明 |
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第21番 作者不明 | 第22番 作者不明 |
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◇第17番 九代大橋宗桂作(15手詰) (手順省略) 最終5手がやや物足りないが、前半の手順の綾は、歴代宗桂中最高実力者の切れ味を伺せるに十分である。九代宗桂は八代宗桂の嫡子で寛政元年に九世名人になり、三代宗看以来27年間続いた名人空位に終止譜(※)を打った。 ◇第18番 桑原君仲作(11手詰) (手順省略) 九代宗桂の献上図式を最後として、詰将棋は民間の手に移った。中でも生涯二百番の創作を手がけた君仲の偉業は、江戸末期の詰将棋界に光り輝いている。大小詰物といわれる曲詰が有名だが、本局のような普通作品にもその才能は遺憾なく発揮されている。四段 ◇第19番 作者不明(3手詰) (手順省略) ◇第20番 作者不明(11手詰) (手順省略) ◇第21番 作者不明(13手詰) (手順省略) ◇第22番 作者不明(11手詰) (手順省略) 最後に有名な作者不明のうち四局を紹介しておく。創作年代は明らかでないが、江戸末期の作品と推定される。これらの作品の持つ共通点は、享保的難解構想型短編から脱皮して、簡素な構図の中に詰将棋の新味を持たせようという努力であろう。そしてこの流れが、続く明治時代以降の詰将棋界をリードする布石となったと考えられる。 |
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◇江戸時代詰将棋作者見立番付 | |||
<東> | <西> | ||
横綱 | 三代伊藤宗看 | 伊藤看寿 | |
大関 | 九代大橋宗桂 | 八代大橋宗桂 | |
関脇 | 五代大橋宗桂 | 二代伊藤宗印 | |
小結 | 桑原君仲 | 伊野部看斉 | |
前頭 | 初代伊藤宗看 | 三代大橋宗与 | |
同 | 三代大橋宗桂 | 二代大橋宗古 | |
同 | 初代大橋宗桂 | 添田宗太夫 | |
同 | 赤池嘉吉 | 河村古僊 | |
行 司 | 十代将軍徳川家治 | ||
総後見 | 渡瀬荘次郎 | ||
この作者番付は、高浜禎の「詰将棋精選」(大正5年刊)からの引用。誰がいつ選んだものかは不明であるが、江戸詰将棋界を概観する上で参考になるので紹介したものである。 ここに名前が上がっている赤池嘉吉と河村古僊は、ともに幕末の作者で、それぞれ五十番の作品を残している。 |
2006年5月22日 更新