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近松門左衛門は「作家の氏神」と呼ばれるほど信望がありまし たがその半面生い立ちについては自叙伝的なものは一切残しておりま せん。ただ死の寸前に、風折帽子に布衣の武家の礼装に毅然とした姿 で描かれている自筆の画像辞世文 (写真左)があるのみです。 大正年間になり、近松が杉森の姓を持つことが判明し、昭和30年代に、 越前・福井で生まれたことが確定しました。 近松と親交のあった人々が書き記した書物から、近年になり近松の人物 像が追々分かるようになってきました。近松門左衛門は1653年(承応2)越前(今の福井県)の藩士、杉森信義の次男として生まれ、元服して 越前吉江藩(今の鯖江市)で15歳頃まで過ごしました。その後父が浪人したため、一家で京都に移り公家たちの雑用係として仕えていたようです。 その時に、古典や仏教の知識を蓄え浄瑠璃にも親しむようになってゆきました。25歳頃て浄瑠璃の作者見習として芸能の世界に飛び込み、宇治加賀掾の芝居小屋に出入りするようになりました。 やがて浄瑠璃を近松門左衛門のペンネームで書き始めました。また歌舞伎役者坂田藤十郎の座付き作者にもなっていました。 竹本義太夫が大阪で竹本座を旗揚げすると、座付き作者となり義太夫のために多く の作品を書き続けました。竹本義太夫に、曽根崎の森で心中事件があったと聞かされ それを取材から作品に仕上げて上演するまで、わずか1ヶ月間とゆう早業で成し遂げ たのが、最初の世話浄瑠璃「曽根崎心中」で、空前の大当たりとなりました。この作 品一本で、竹本座の過去の累積赤字も全て無くなったと伝えられています。 近松が永年住み慣れた京都から大阪へ移るのが1706年で、近松54歳の初め 頃でした。大阪では、船問屋・尼崎屋吉右衛門宅に、度々逗留して、船頭や行商人 旅人たちから、全国各地の話を聞き集め、それを題材にして作品を書いていました。
一方、久々知の広済寺の起源は、源氏の棟梁であった (清和天皇の孫)が957年(天徳元)に妙見宮(妙見は、北極星、北斗七星を併せ て神格化されたもの)を祀ったのが始まりと伝えられています。 この妙見宮のあった所に、鎌倉時代、禅宗の廣済寺が建てられました。が、南北朝 時代の戦乱で荒れるがままに放置されていました。 この荒れ果てた広済寺を1714年(正徳4)に再興したのが
日蓮宗僧侶の 時に 近松62歳、日昌上人48歳でした。 |
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近松の母が亡くなった時にも、広済寺で法要を行うなど、近松の旦那寺であり,日昌上人との親交も非常に深かったようです.
広済寺の本堂の裏には「近松座敷」と呼ばれる近松の仕事部屋が明治の末までありま した。晩年近松は騒々しい大阪を避けて、ここで執筆活動をしていたと伝えられてい ます。 傑作といわれる作品だけでも「 「 近松門左衛門は、人形浄瑠璃の隆盛期を築いた偉大な劇作家でありました。 近松は1724年(享保9)11月22日に死亡。 享年72歳廣済寺の本堂の東側にお墓が建てられました. このお墓は、1996年(昭和41)に、国の指定史跡になりました。 石碑には「 広済寺の東隣で、近松公園の敷地内にある「近松記念館」には廣済寺にあった近松ゆかりの品約100点が展示され、何時でも下記要領で見学出来ます 会館時間 10時 〜 16時 休館日 毎週水曜日, 毎月第2日曜
入館料 大人200円、学生150円、小人100円(団体割引あり) |
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近 松 の お 墓 | 近 松 記 念 館 資 料 室 | ||||||
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