オレは今、幸せの絶頂にいる。
明日はマラソン大会で、今日はそのための準備期間として二年は全クラス休みになっている。
何か口実を作って10代目のお宅へお邪魔しようと考えていたところに、
10代目本人がオレの部屋を訪ねてくれたのだ。
オレは知らなかったのだが、この前のテストで赤点を取った奴は明日のマラソン大会の後にもう一度テストがあるらしい。
10代目は英語で赤点を取ったらしく、明日の再テストのために勉強を教えて欲しいとオレを頼ってくださった。
10代目に頼りにされることが何よりも嬉しいのでオレは満面の笑みで10代目を迎え入れて、
今はリビングでリボーンさん特製の英語問題集を解いているところだ。
リボーンさんの問題集は10代目のことをよく考えて作られていて、
10代目が苦手なところは文章を変えながらも徹底的に構文を叩き込むように出来ている。
今も10代目は過去完了形の例題9に取り掛かっている。
9問目ともなると10代目も慣れたもので、つまずくことなくさらさらとペンを走らせていて、
その心地よい音に耳を傾けながら出来上がる文章を目で追っていく。
『トムがそこに着いたら、サリーはもういなかった』
デートに遅れた男の悲惨な最期が書かれている。
マフィアは慕ってくれる女を大切にしなければならない。
リボーンさんは学校の勉強にまでマフィアの勉強を盛り込んできている。さすがだ。
「。」まで書き終わったところで10代目が顔を上げて尋ねてくる。
言葉は出さずに「どう?」と目で尋ねる様子は、勉強とかそんなの放り出してしまいたいくらいに愛らしい。
気を抜くと伸ばしてしまいそうになる手を膝の上に戻して、笑顔を作って答える。
「正解です」
オレの言葉を聞いてまた嬉しそうに笑う10代目の笑顔は破壊的な威力を持っている。
その力の前になすすべもなく崩れ去るのは主にオレの理性だ。
10代目は勉強中、今オレは10代目に頼っていただいて、勉強を教えて差し上げているという立場。
触れたい、抱きしめたい、キスしたいなんて感情で10代目の勉強の邪魔をしてはいけない。
でも10代目かわいすぎますダメですもうオレ我慢できそうにないです。
たぶん今はぐちゃぐちゃのめろめろになった情けない顔をしている。
それも10代目が下を向いて次の問題を解き始めたお陰で見せずに済んだ。
10代目が下を向いている間に顔を引き締めて、10代目が顔を上げたらまた緩んで。
プリントを解き始めてからずっと繰り返していたそれも、
最後の空白が埋まったことでやっと終わりになる。
ほっと息を吐き出す10代目とオレ。
そのため息の意味はたぶん違うんだろうけど。
「お疲れ様です」
「うん。獄寺君もありがとう」
それまでずっと握ったままだったペンをプリントの横に置いて、後ろに手をついて体を斜めに倒れさせた。
苦手なものを徹底的に繰り返し解かされたので、疲れているのだろう。
「ココア入れてきますね」
開放感からかぼんやりしている様子の10代目に声をかけて立ち上がる。
「あ、ごめん。ありがとう」
慌てて姿勢を正して礼を言う10代目をやはり素晴らしい人だなぁと思いながらキッチンへと向かった。
最近自分の部屋で10代目と一緒に飲み物を飲むときに使っているのは、背の高い黒いペアのマグカップ。
以前商店街のガラポン抽選会で10代目が素晴らしい感性を生かして引き当てたものだ。
10代目が引き当てたマグカップなのに、なぜオレの部屋にあるのかといえば、
それは一重に10代目の愛によるものだったりする。
オレの気持ちを伺うように揺れる上目遣いで「獄寺君ちで使っていい?」なんて言われたら頷くしかない。
もちろん10代目とペアのマグカップを使うなんてオレだって願ってもないことだったので、
10代目が上目遣いじゃなかったとしても頷いている。
けれど、あれはやばい。
あまりのかわいらしさに立ち止まってしまったオレの様子を窺うように小首を傾げる姿なんて、
たぶん無意識でやってるんだろうけどそれこそ破壊的な威力を持っている。主にオレの理性を攻撃するために。
その後そのままオレの部屋に二人で帰って、新しいマグカップでココアとコーヒーを飲んで、
それからマグカップと一緒に10代目もいただいてしまいました、
なんてことを思い出しているうちにシュウシュウと音を立てて水が完全に沸騰してしまった。
頭の中に溜まった熱も湯気と一緒に換気扇に吸い出してもらって、
10代目のためのココアと自分のコーヒーを作る。
カップの中身をかき混ぜながら、リビングに戻るまでにポーカーフェイスを取り戻せるかな、なんてことを心配していた。
「お待たせしました、10代目」
リビングに入ってドアを閉めて、10代目の向かい側に腰を下ろしてマグカップを置く。
ありがとう、と言う10代目の笑顔はやっぱりかわいらしくてどうにもたまらない感じだ。
マグカップを手元に寄せてスプーンで中身をくるくるかき混ぜながら
自分のマグカップとオレのマグカップを見て嬉しそうにしている様子は本当にたまらない。
「それにしてもマラソン終わった後に補習なんてふざけてますね」
ペアのマグカップはとても嬉しいし、マグカップ自体は幸せの対象なのだけど、
10代目がマグカップに口付けるのを見ていると、とても悔しい気持ちになる。
でも考えてみればこのマグカップは背の高さも幅も色も同じもので見分けがつかないので、
この前オレが使ったものが今10代目の手の中にあるもので、
オレが口をつけたところに今10代目の唇が当てられているのかもしれないと思えば、
さっきまで感じていた悔しさなんてものは吹き飛んで、
やっぱりこのマグカップは幸せの対象にしかなりえないものなのだと認識する。
そんなことを考えながら言った言葉は表情とまったくかみ合っていないのだろう。
「ほんとにねー、走って疲れて、勉強して疲れて。体も頭もへとへとだよ」
「でもその補習っていつ決まったんです?」
10代目のことに関しては常に気を巡らせているつもりだったのに、気付けなかったことを悔しく思う。
10代目もオレのそんな気持ちを理解してくれているのか、気にすることはないと微笑んでくれて。
「この前の補習の最中に別の先生から言われたから、獄寺君が知らないのも無理はないよ」
「そうだったんですか・・・」
10代目が補習をしている間は屋上でタバコを吸ったりダイナマイトの手入れをして時間をつぶしているのだけれど、
今度からは教室の前で待ってようかな、とも思う。
でも教室の前で待つと女子がうるさくて10代目の邪魔になったことがあったし、
うーん、と唸りながら考えていると、10代目が小さく笑って声を出した。
「ごめんね、オレがちゃんと言っておけばよかったんだね」
「じゅ、10代目が謝ることなんてありませんよ!オレが抜けてたから・・・」
「ううん。獄寺君に迷惑かけちゃうことは、ちゃんと前もってオレが伝えるようにしなきゃ」
「め、迷惑だなんてそんな風に思ってません!」
「うん、ありがとう」
オレはこの笑顔に弱い。
ぎゅうう、と胸を締め付けられるような、それでいて劣情を煽られるような。
10代目はそんな風に思ってないんだろうけど、オレがそんな風に思うのが駄目なんだろうけど、
そんな顔を向けられてしまうと、触れたくてたまらなくなってしまう。
マグカップの持ち手から指を離して、そっと10代目の頬に触れる。
そうすると次にオレがキスをするのは分かっているから、10代目はびくりと体を震わせる。
緊張した様子や、上目でオレを窺ってくる姿に余計煽られることを10代目は分かってないんだろうか。
身を乗り出して体を近付けて、目を閉じた瞬間、ぐしゃ、と顔に変な感触が当たる。
間違ってもこれは10代目の唇じゃない。
「ま、まだあったんだった!」
10代目の声に、目を開けてもなぜか視界は広がらない。
一瞬して、ようやくクリアになる視界に、10代目の気まずそうな顔と、それからその手にくしゃくしゃのプリント。
たぶんオレの顔にぶつけられたのはそれだろう。
「さっきプリント仕舞おうとしたら、鞄の中からもう1セット出てきたんだ。ごめん!」
「いいですよ。じゃあ飲み終わったらそれもやっちゃいましょうね」
「うん・・・ごめん」
「謝らなくていいですよ」
しょんぼりして少しうつむいた10代目の頬に小さく掠めるようにキスを落とす。
それだけで驚いて顔を真っ赤にしてしまう10代目に、これくらいは許してください、と心の中で思う。
そういえば10代目は日本人らしく奥ゆかしいところがあるんだった。
一度そういう雰囲気になってしまえばいくらでもかわいい顔を見せてくれるのに、
そんな雰囲気になるまでは非常にストイックなのだ。
もちろん恥らう姿もとてもかわいらしいのだけど。
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