人が掲げる開花予想などにあわせてやるつもりなどないようで、
冬の間に花開く準備を整えた桜の樹木は、自分たちの好きなタイミングでつぼみを開いた。
予想が外れたと嘆いたり、例年よりも何日早いとデータを見比べたり、
異常気象だと地球の未来を心配するのはナンセンスだ。

「きれいだねぇ」

少し前を歩く10代目はそう呟いた。
そう、きれいなのだ。
桜の花が満開に咲くこと、薄桃色の花びらが流れるように散っていくこと、それはただきれいなことだ。
自分もものを考えることが癖でついつい関連する事象を並べ立ててしまいそうになるが、
10代目のおっしゃった一言は、その本質を突いている。
考えるのをやめて目の前の光景を脳裏に伝える。
きれいに晴れた大空の下、薄い桃色の花が咲き誇り、その花びらがひらひらと舞い落ちる。
その様子を眺めながら、10代目は笑顔で振り返った。

「ねぇ獄寺君、公園寄ってこうよ」

きれいだと思った。
風になびく髪の毛も、光を受ける健康的な肌も、優しく微笑む表情も、やわらかいその声も。
目に映るもの、耳に届くもの、10代目を構成するもの、10代目を取り巻くもの。
そのすべてが他のことを考えさせる余地を与えないほどにきれいだ。

「はい、10代目」

返事をして、歩を進め、肩を並べて公園に入る。
今は昼寝の時間のせいか、ガキの姿は見当たらない。
誰かが置いていったままのバケツとスコップの横を通り、
奥にあるベンチへと進んでいった。

公園の周りには桜が並び、地面の上にはいくつもの花びらが散っている。
ベンチの後ろにも大きな桜の木が何本か植えられており、花びらが雨のように降ってきている。
ベンチに積もった花びらを落とし、10代目の座る場所を確保した。

「10代目、どうぞ」

振り返ると10代目は恥ずかしそうな困ったような奥深い表情をして頷いた。

「ありがとう、獄寺君」

優しい声で感謝の言葉をかけられて気分が高揚した。
10代目がベンチに腰掛けたのを確認してからもう一度声をかける。

「オレ、飲み物買ってきますね!10代目は座って休んでいてください」
「え、獄寺君、いいよ・・・」

皆まで言わせずとも10代目の好みは心得ている。
10代目は柑橘系の炭酸飲料がお好きだ。
つい先日期間限定でグレープフルーツのプァンタが発売されたところだ。
あれを10代目に飲んでいただこう。
頭の中で検索された情報に笑みを作ってきびすを返す。
一番近いコンビニへのルートを思い描き、その方向へと足を向けた。



売り切れているのか、はたまた入荷されていないのか、求めるものがなかなか見つからない。
コンビニを巡り、自販機を眺め、スーパーにも立ち寄って、
やっとのことで手に入れた新発売のパァンタ・グレープフルーツ。
あまりの嬉しさに8本ほど買い込んで、急ぎ足で公園に戻った。
10代目をお待たせしていることを意識すれば自然に走り出してしまいそうになるけれど、
手に提げているのはすべて炭酸飲料だ。
10代目がふたを開けた瞬間に噴き出して10代目の顔を汚してしまってはいけない。
慎重に、けれど急いで、随分と遠くまで来てしまった道を折り返した。

10代目の待つ公園が近づき、はやる気持ちを抑えて中に入る。
別れたときと同じようにベンチに座っている10代目の姿を認めて、胸が弾んだ。
ただいま戻りました、10代目!
思わず振りそうになった炭酸飲料を提げた腕を押しとどめ、声をかけようとした口を閉じる。
背中を背もたれに預けて、頭を下に向けて、10代目は気持ちよさそうに眠っていた。
目当てのものを見つけるために店を回りすぎたのだ。
オレを待ちくたびれた10代目は、待ちきれずに眠ってしまった。
こくりこくりと揺れる頭に、薄桃色の花びらが落ちる。
その体勢になって随分経つのか、いくつもの花びらが10代目のやわらかな髪の毛の上に座っている。

起こしてしまうのも忍びない。
少し座って10代目が目を覚ますのを待っていようと10代目の座る隣のスペースを見れば、
オレが座るためにと取り払われたのか、はじめに来たときよりも花びらの積もり具合が薄い。
10代目の心遣いが嬉しくてくすぐったくて、口元がへらへらと緩んでいくのを自覚しながら、
オレがいない間に10代目がそうしただろうと思うように、薄く積もった桜の花びらを手のひらで丁寧にどけていった。

10代目の隣に腰掛けて、ベンチの端に炭酸飲料の入った袋を置いた。
隣を見れば10代目はすうすうと穏やかな寝息を立てて眠っている。
ひらひらと舞い落ちる花びらが10代目の髪の毛や肩に積もっていく。
それらを払おうと手を持ち上げて、触れられず、そのままひざの上に下ろして手を組んだ。

太陽の日差しはぽかぽかと暖かく、やわらかい色をした花びらが舞う様子も穏やかだ。
空の青さや陽の暖かさ、風の涼やかさに心が洗われる。
こんな風に目に映るもの、肌に感じるものをありのままで受け止める日が来ると思わなかった。
何かを見て、きれいだと思う心が自分の中にもまだ残っていたのだと気づくことができた。
10代目に会うまではどこを見ても灰色の世界で、目指した光だって汚れていた。
それが今では10代目の傍にいられるだけで、こんなにも世界は輝いて見える。
この人の隣で生きていられること、この人が生きていること、そのことがとても嬉しくて、大切なことだ。
10代目の寝顔を見ているだけで心の中は幸せに満ちて自然と笑顔がこぼれる。
けれどそれとは別に、泣いてしまいそうなほどに胸をしめつけられもする。
ただ10代目から信頼される部下として傍にいられたらよかったのに。

はらはらと降りてきた一枚の花びらが、10代目のまるい頬にくっついた。
そろりと視線をやって、さっきは触れられなかった指先をもう一度持ち上げた。
きれいなこの人には触れられないという気持ちは、触れずにはいられないという思いに変わる。
震えそうになる指先の情けなさに自嘲してしまいそうになりながら、
そっと、傷つけないように指を動かす。
やわらかな頬の上をすべり、花びらが地面へと落ちていく。
触れてしまえば強烈に、許されない感情を自覚する。

触れたい、触りたい、もっと、10代目に触れていたい。
目に映るきれいな世界が、何もかもを許してくれると錯覚しながら。
これが最初で最後だからと都合よく言い訳をして、指先に触れる10代目の頬をそろりと撫でた。
10代目、心の中で小さく呼びかけて、触れたままの中指と人差し指を小さなあごへとすべらせる。
桜の花のように薄く色付くまろやかな頬にそっと唇を落とす。
見た目のとおりにやわらかく、そしてどこか甘い感じがした。
触れたときと同じように、そっと唇を離していく。
名残惜しく思いながらも指先を離せば、10代目の口元がぴくりと動いた。
ふるりとまつげが小さく震えて、まぶたがゆっくりと持ち上がる。
紅茶色の瞳が現れる様子を、きれいだと思いながらどこまでも夢見心地で眺めていた。


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