最高責任者の悪

 塩野七生『ローマ人の物語XI 終わりの始まり』(新潮社)に、次の一節がありました。

 ドナウ河問題が表面化した段階で、この問題の本質がどこにあるかをいち早く認識し、その解決には何と何の方策があり、これらの方策のうちで、当時のローマの力で実現可能なものは何かを見極める。そして、この後ではじめて全力を投入し、事態の早期打開を達成するのが、最高責任者ならば考慮すべき戦略であり政略であった。事態の解決を長びかせることは、それ自体ですでに「悪」なのである。はじめのうちならば小規模な対策で解決できたかもしれない問題も、長びけば長びくほど、解決に要する血も軍費も増大せざるをえない。だが、これらのことよりも深刻で後を引く弊害は、当事者であろうと非当事者であろうと関係なく生じてくる、自信の喪失であった。余裕がもてなくなると人は、その回復に努力するよりも、別の誰かを犠牲にすることで気を晴らそうとする。

 ローマ皇帝の責任も、学級担任の責任も、同じなのです。
 学級の問題を早期打開できない教師は、それだけで「悪」となるわけです。

(2003.1.22)