究極の選択が、聖書の中にあります。旧約聖書の「創世記」の話です。
子供を授かるにはもう、年をとりすぎたとあきらめたアブラハムとサラのあいだに、一人の男の子が産まれました。
アブラハムが100歳の時でした。
イサクと名付けられたその男の子はすくすくと成長し、息子に深い愛情を注いでいたアブラハムに、突然神様は、信じられないことを命じます。
「あなたの愛する独り子イサクを連れて・・・彼を焼き尽くす献げ物(ささげもの)としてささげなさい。」(創世記22章2節)
http://www.cory-p.com/calvin/quiz6.htmより
「愛する息子を捧げ物としなさい」と、神様から命じられたアブラハムは、どうしたでしょうか。
(ちょっと道徳では扱えない内容かもしれませんね。)
アブラハムは、神様の命ずる通り、献げ物にするために息子を殺そうとします。
結局、そこで神様に止められ、
「自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を点の星のように、海辺の砂のように増やそう。・・・地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。・・・」(創世記22章12・16節)
といって、アブラハムを祝福するわけです。
(止めるぐらいなら、最初からそんなこと命ずるな)と思ってしまいますが、要するに、アブラハムが神様を信じてるかを試したわけです。
「神を信ずれば救われる」ということです。
何しろ、キリスト教は、唯一絶対神ですから。
古代ローマでは、日本と同じように多神教でした。一神教であるキリスト教が迫害を受けたのも道理なのです。
キリスト教にしても仏教にしても、宗教というものは、人に対して、信ずるか信じないかの二者択一を迫ります。いわゆる集中的発問です。
そして、信じさせるために、聖書を作り、仏典を作っているのです。
算数の定理(例えば、フェルマーの最終定理)も、宗教に近いところがあります。「この定理は正しいか正しくないか、証明してみろ。」という感じです。
宗教をめぐる論争や戦争が起こるように、定理を証明するための論争が起こるように、集中的発問に似たものは、常に、たたかいを生むわけです。
多神教を信ずる日本は、いわば拡散的発問の土壌とも言えます。何を言っても認められる、という感じです。
西洋の合理主義と、東洋のなあなあ(?)の違いはそこが原因かもしれません。
(2006.1.2)