秋田の感恩講と信託

 秋田の感恩講について、インターネットで調べました。

文政十年(1827)、奉行所に年末の挨拶に出かけた那波祐生は、町奉行・橋本五郎左衛門から、たび重なる凶作と飢餓により、久保田でも生活に困窮する町民が増加していたため、「藩主が貧民救済の御意向があるが、運用資金調達方法を検討して欲しい」と相談される。それは若いときに貧苦を経験した祐生にとっても、かねてからの念願であった。
考え抜いた末に祐生の立てた計画は、献金を募りその金銀で知行地(農地)を買い入れ、そこから上がる年貢収入で、平年は貧民を救済し、凶作の年には飢餓に苦しむ人たちを助け、毎年の収入の半分は救済に使い、残りの半分は貯蓄するというもの。この方法をとれば、出金者個々の経済力に影響されることなく、恒久的に安定した活動を維持することができる
祐生はまず、自ら金四百両の献金を願い出、翌十一年から東奔西走し外町の有力町人に働きかけ、同十二年二月に至って同志七十二人の賛同を得る。祐生の熱意と善意に動かされ、一般町民の中からも加入者が増え、構成員は百九十一名となり、献金は金二千両、銀十貫匁となる。その金銀で知行地を購入し、ようやく財政基盤が出来上がる。
文政十二年(1829)、藩では、この事業団体に「感恩講」という名称を与え、献金者に対して、毎年重ね餅を配ることにした。餅配りは恒例となり、その後も長く続けられたという。祐生を中心とした町民の善意と、さらに藩の支援を受け「感恩講」という、民間主導の画期的な救済事業が誕生した。 (波線:荒井)
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-48.html

 最初の献金以外は、寄付を頼らずに救済事業が続けていけるということが、すばらしいです。
 ただ、この事業と信託をどうつなげたらいいのかが、難しいです。
 ポターさんが、湖水地方をナショナルトラストに託したのが、信託です。
 ならば、那波祐生が貧民救済を感恩講に託したのが、信託といえるのかもしれません。
 託した人の死後もその制度が続けられるところに、ポイントがあるのかもしれません。ただの信託ではなく、恒久的な信託といえそうです。
 ノーベル賞も、ノーベルの信託といえます。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国憲法前文の一部です。
 国民の信託によって、国政は行われているわけです。

(2007.1.24)