バカの壁

 養老孟司『バカの壁』(新潮社2003.4.10)を読みました。なぜこの本がベストセラーになるのか分かりませんでした。

 つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。(P.14)

 授業の中で、まずこの壁を取り除く手だてが必要です。知りたくてたまらない、もしくは、ちょっと興味が出てきたぐらいにしてから、本題に入る方がいいわけです。

 その後、自分で一年考えて出てきた結論は、「知るということは根本的にガンの告知だ」ということでした。学生には、「君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう」と話してみます。(P.60)

 ガンの告知のようなことがなければ、そこに桜があっても、その桜の本当の意味や姿を知ることはできないということでしょう。ゆであがるのを待っているカエルと同じなのかもしれません。

 人間は変わるのが当たり前。だから昔は「武士に二言はない」だった。武士の口が重かったのは、恰好をつけていたからではない。うっかり言ったら大変だからです。
 武士は下手な約束をして守れなかったら命に関る。責任を持とうと思えば、要するに責任の重い人ほど口が重くなった。綸言汗の如し、ということです。
 約束、言葉が軽くなった理由は、同じ人なんだから、言うことは変わるはずがないだろうという前提がいつの間にかできてしまったところにある。(P.64)

 人はいろいろな影響で考え方が変わっていくはずなのに、同じ人だから変わらないと思われてしまうわけです。子どもも教師は変わらない、と思っているので、前と言っていることが違うと、混乱するわけです。
「教師に二言はない」ということかも。

 一番印象に残っている酷い例は、東京大学での口述試験での体験。頭の骨を二個、机の上に置いて、学生に「この二つの骨の違いを言いなさい」と聞いたことがある。すると、ある学生が、一分ぐらい黙った挙句に、答えは「先生、こっちのほうが大きいです」。「おまえ、幼稚園の入園試験でリンゴの大きさを比べているんじゃないぞ」と思わず言ってしまったのですが、そういう学生が実際にいる。愕然、呆然でした。(P.165)

 養老氏が愕然、呆然としていること自体に、私は呆然としてしまいます。
 これは養老氏が、自分のレベルから回答を見るからそうなるのです。
 まずは2つの大きさの違いを認めてから、さらに違いを言わせていけば、上記の学生も、高いレベルの回答をできたのではないでしょうか。
 裾野の部分をまず出させる観点が、養老氏に欠けていたということです。

(2007.2.16)