全責任を背負って謙遜しない

『わたしの少女時代』(1979.6.21)に、黒沼ユリ子の「バイオリンと歩むなかから」という随筆があります。
 プラハの音楽アカデミーで初めての実技試験があったとき、黒沼さんは「最大の準備を重ねてのぞんだにもかかわらず、我ながらがっかりし」て、友人たちに「うまく弾けなかった」と繰り返し言っていました。
 でも、黒沼さんの先生は、そのことに対して、次のように言ったのです。

「おめでとう。あなたはとても良い点をとれましたよ。そして、自分がへたに弾けてしまったなどと決して人前でいってはいけません。自分の欠点は自分がいちばん良く知っているのですし、知っていなくてはならないのです。でも、他人に向かってそれをいいふらすことは、何の役にも立ちません。さあ堂々と、私は立派に弾けました、と言ってごらんなさい。」

 実は、私はこのことをいつも意識しています。
 原稿を書くときや、講座を担当するとき、自分のできないことや苦手なこと、そして、自分を謙遜したり、卑下したりするようなことを書いたり、言ったりしないようにしています。
 原稿を読む人、講座を聴く人は、その原稿やその人(私)から何かを学びたいと思ってきているのです。私が謙遜したり、卑下したところで、その人たちの役には全く立ちません。
 ですから、自分の本を紹介するときも「拙著」とは言いませんし、書きません。
「拙い本ですがどうかお読みください」という謙遜なのですが、そんな拙い本を紹介し薦められても、嬉しくないでしょう。
 黒沼さんは、先生に言われたことに対して、次のような考えを書いています。

日本では、他人の前で自分を卑下していうことが美徳とされている。それは、人間のおごる心を戒めるためにあるのだと思うが、その反面、もし失敗しても、初めから誤ってしまえば許される、という甘えがあるとはいえないだろうか。たとえ失敗をしても、その全責任を自分が背おって、他人には絶対に泣き言などいわない、というヨーロッパ人の考え方は、私たちよりずっと自分自身にとって厳しいことなのだ、とそれ以来、私は思うようになった。

 自分の中で、どうでもいいことは、口に出して、苦手でできないと言えます。
 例えば、私は音楽が苦手で、「♯と♭って何が違うの?」「楽器は全くダメです」などと言います。
 これは、別に卑下でも謙遜でもないのです。
 だた、私は教師として、「授業を教えるのは苦手だ」とか「学級経営をうまくできたと思ったことはない」とは、言ってはいけないのです。
 なぜなら、それらのことができるべきであり、もしそれができないのならできるための努力をひたすらとしているべきだからです。

(2017.12.6)