14年前の読書跡

 塩野七生『ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル~ルビコン以前~』(新潮社1995.9)を読み直している。14年前に読んだ本である。
 この当時、私は本に赤鉛筆で線を引いていたようだ。そこから抜粋する。

幼児に母の愛情に恵まれて育てば、人は自然に、自信に裏打ちされたバランス感覚も会得する。そして、過去に捕われずに未来に眼を向ける積極性も、知らず知らずのうちに身につけてくる。(P.29)

 その逆で、母の愛情薄く育てば、自信が持てず常に過去に捕らわれる消極的な性格になりうる、ということか。

言動の明快な人物に、人々は魅力を感ずる。はっきりする、ということが、責任を取ることの証明であるのを感じとるからだ。(中略:荒井)人は、仕事ができるだけでは、できる、と認めはしても、心酔まではしない。言動が常に明快であるところが、信頼心をよび起こすのである。(P.52)

 確かにオバマ大統領にしても、イチローにしても、言動が明快である。

「社会の下層に生きる下賤の者ならば、怒りに駆られて行動したとしても許されるだろう。だが、社会の上層に生きる人ならば、自らの行動に弁解は許されない。ゆえに、上にいけばいくほど、行動の自由は制限されることになる。つまり、親切にしすぎてもいけないし憎んでもいけないし、何よりも絶対に憎悪に眼がくらんではいけない。普通の人にとっての怒りっぽさは、権力者にとっては傲慢になり残虐になるのである。」(P.119)

 自分を社会の上層に生きる人とは思わないが、教師という立場は、ここでの上層に生きる人と同じ制限を持たなくてはならないといけないだろう。

文化は、各人のものであり、それをどう考えるかは各人の自由である。しかし、文明は、人種も肌の色も風俗習慣も異なる人間同士が接触する場合に必要なルールは、各人勝手で自由として済ませるわけにはいかない。

 違う者同士が交流する場合には、共通のルールがどうしても必要。学級もそう。各家庭では様々な家庭の価値観がありルールがある。しかし、学校もしくは学級という場では、そこで共通してみんなが守らなければならないルールがある。そのルールが崩れるから、様々な家庭(個人)のルールが学級に持ち込まれ、収拾がつかなくなってしまうのである。
 こうして線を引いた箇所を引用してみると、私がそのとき、どういうことに関心を抱いていたかが、よく分かる。どの箇所も、自信・責任・明快・ルールというものが内包している。
 自分が教師として、「自信を持ち、明快な言動をとり、学級のルールを全体に守らせていく責任を果たしたい」と思っていたのだろう。
 本を読むことで得られることは、知識や情報だけでなく、己の願望をも映し出していくのかもしれない。

(2009.9.22)