このページは、私が思っている事や考えている事をテーマを定めずに書いています。
邦楽に関する事を書くつもりですが、何事にも例外は付き物です。
何でもありの雑感コーナーです。
45 人間性
 仕事帰りに電車に乗ると、結構混んでいることが多い。今日も数人が立っていた。途中の駅で隣同志に並んで座っていた2人が降りたのだが、その前に立っていた50才中頃の男性が、その2人分のスペースにどっかりと足を広げて座ってしまった。なんだかとてもイヤな気持ちになった。もっと年輩で立っている人もいるのに、どうしてそんな態度が取れるのだろうか。みんな同じ様に疲れているのに、無神経極まりない。
 さらに別の女性(やはり50才位)は、電車に乗ってから携帯電話をかけて大きな声で話し始めた。かかってきた電話に応対するだけでも車内では迷惑なのに、わざわざ自分からかけるとは、非常識すぎる。
 「今どきの若者」ではなく「今どきの熟年」にもバカが多いことがわかった。こういうマナー知らずや非常識な行動に、その人の人間性が出るのだろう。普段の何気ない行動に、その人の人格が出るものだ。
 故吉村雄輝師の言葉に、「品はお金では買えない。またお稽古して身に付くものでもない。」というのがあったように思う。我々のように無形のものを創る仕事をする者は、特に常日頃の心掛けが大事だということだろう。芸(芸能、芸術)には、必ずその人の人間性が出ると思う。付け焼き刃でごまかすことはできない。肝に銘じておきたい。
44 お稽古
 「お稽古」(おけいこ)という言葉が好きだ。「お稽古」そのものではなく、言葉の響きが好きだ。辞典で調べてみると、「稽」という字には、「思いをめぐらす。考える。」という意味がある。つまり「稽古」とは、「むかしのことを考える」ということで「学問をする」という意味になり、さらに広義に使われるようになって「技を磨くために武術や芸事を習う」という意味になったらしい。
 この「学問をする」という意味と「芸事を習う」という意味があるのが面白いところで、能動的な面と受動的な面が一緒になっている。したがって「お稽古をする」と言った場合、自分自身が鍛錬するという意味にもなるし、あるいは師匠が弟子に教える、さらに弟子が師匠から習うという意味にも使える。どの立場においても使えるところが面白い。
 同じような言葉でも「練習」というと、なんだか現代的な感じを受ける。そして「練」という字には「ねる。きたえる。」という意味があるので、「練習する」という言葉は自分自身の行動についての表現である。
 カルチャー教室などでは、「レッスン」という言葉をよく使うが、これも少しニュアンスが違う。「レッスン」というのは「授業」という意味であり、教える側に立った言い方のように思う。しいて言えば、「レッスン」と「トレーニング」を合わせたものが「お稽古」の持つニュアンスだろう。
 まあ、理屈ばかり言っても仕方がないが、「お稽古」という言葉はなんともいい響きだ。古典芸能が持つ厳しさと暖かさが感じられる。修行の厳しさとともに、師弟関係のぬくもりが伝わる言葉だ。
43 見計い
 先日舞台を見に来た人に、「笛の大きな音のところで、立方の人がタイミングよく手を振り上げていましたね。」と言われてズッコケてしまった。これは全く逆である。立方が勢いよく手を振り上げた瞬間に、大きな音を吹いたのだ。
 このように振り付けに合わせて演奏することを「見計い」(みはからい)という。これは日本舞踊の演奏において非常に重要な要素である。何かの動作をキッカケにして、ある音が欲しいときなどに有効だ。例えば上記のように、激しく腕を振り上げたときに大きな音を出したり、あるいはある仕草を合図に全体の音をかすめたりして様々な演出効果を生む。
 具体的には、「京鹿子娘道成寺」の「急の舞」や狂言舞踊のラストシーンの「追い回し」などが挙げられる。「急の舞」は流派や立方によって寸法が異なるので、囃子方が見計って合わせる。また「追い回し」では長唄と囃子方が呼吸を合わせて音をおやしたり、かすめたりしている。もちろん、すべて舞台の状況を見ながらである。また、曲の途中で衣装を着替えるときなども、仕度ができるまで合方でつないだりする。
 こういうことができるのは、生演奏の強みであり、テープでは不可能だ。最近テープを流して踊るケースが増えてきたが、生身の人間が演じる舞台では融通がきかない。人間がテープに合わせて踊るのではなく、人間同志の駆け引きこそが舞台の醍醐味といえる。
42 縁の下の力持ち
 最近読んだ本に面白い話題があった。「回り舞台」と「セリ」については以前書いたことがあるが、それに関連した話。これらは今でこそ電動式だが、昔はもちろん手動だった。7〜8人が床下に待機していて、人力で作業していたらしい。そしてこれらの作業人たちは、世間に顔が射す人達、つまり前科者が多かったらしい。確かに床下で働いていれば、顔を見られる心配はない。
 常に忙しい訳ではないので、博打が何かで暇を潰していて、鳴子の合図でスタンバイする。柝頭が鳴ると軸木についた棒を一斉に回すという段取り。「セリ」の場合は、丈夫なロープと滑車を使って引き上げたらしい。
 目立たないがとても重要な役割だったことから、「縁の下の力持ち」という言葉が生まれたらしい。
41 後  見
 歌舞伎や日本舞踊の舞台には、「後見」と呼ばれる人が出てくる。役者や踊り手の後方に控えていて、いろいろと手助けをする。扇子や手拭い、小道具を手渡したり、衣装の着脱を手伝ったり、顔の汗を拭いたりと忙しい。
 所作(踊り)の場合は、黒紋付きに袴姿で舞台奥に控えている。お芝居のときは、全身黒装束を着て、用事のあるときに出てくる。これが、いわゆる「黒衣」(くろご)である。一般には「ころこ」と呼ばれることが多いが、正確には「ころご」と濁って発音する。「黒衣」は舞台奥に控えたりせず、用のあるときだけ素早く行動する。「黒衣」は、「後見」の1つのバリエーションである。
 舞台上の約束事として、「後見」は見えないことになっている。空気のような存在だ。「後見」がどんなに手助けしても、それはなかったことになる。
 「黒衣」以外に「雪衣」(ゆきご)というのもある。これは舞台一面が雪景色のときに活躍する。全身白装束の「後見」である。
 さらに、舞台が海原や川面のときは、「浪衣」(なみご)という青装束の「後見」が登場する。
 どんな色であっても、「後見」は「無」であることに変わりはない。
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