井沢元彦氏の饑餓論

 井沢元彦『逆説の日本史15近世改革偏~官僚政治と吉宗の謎~』(2008.8小学館)に書かれている「饑餓論」が面白いので、長いけれど載せます。

 現代の日本では死語となりつつある言葉に「飢饉」と「餓死」がある。これは決して地球から根絶されたわけではなく、北朝鮮やアフリカでは今でも珍しいことではないが、実は人類の歴史というのはこの「飢え」との「闘争史」でもあったのだ。
「食うや食わずの生活」という言葉が今もある通り、人間食うことに追われていては何も出来ない。今からおよそ五千年ほど前に「大河のほとり」で、その氾濫によってもたらされる肥沃な土が大量の収穫を生み、初めて人類に余裕というものが出来た。人は学術や芸術や文化を語ることが出来るようになった。世界四大文明の出現である。ピラミッドも「食うや食わずの生活」では決して出来ない。
 しかし、相変わらず「飢え」は「疫病」と並んで人類最大の敵であった。四大文明の一つインダス文明が呆気なく滅んだのも、気候の変化による農業生産の激減にあるのではないかという説もあるくらいだ。
 人間の数を「人口」と呼ぶように、人は物を食べなければ生きていけない。そのためには農業がうまく行く必要がある。ところが、昔は意外なところで農業がうまく行かないというケースがあった。
 たとえば琉球王国(沖縄県)や薩摩国(鹿児島県)である。これらの地は、特に東日本に比べれば気候は温暖である。だから、餓死など無かったと思うと大間違いで、実は東日本では豊作の時も、この地方では餓死者が多く出ていたのである。なぜ、そんなことになるかといえば、米(稲)という作物は大量に水を必要とするからだ。平均気温が高いだけではダメなのである。特に薩摩国は火山灰台地で保水力がないうえに、地味もよくない。平たく言えば、暖かいだけで米などまったく出来ない土地なのである。もちろん現在は品種改良が行なわれ決してそうではないが昔はひどかった。つまり薩摩国というのは日本国の中でも餓死者の多い国だったのである。
 この状況を一変させたのが甘藷つまりサツマイモなのである。
 サツマイモは火山灰台地のような他の作物をまったく受け付けないような土地でも出来る。それも稲のような面倒臭い世話は一切いらない。放っておいても増えてくれる。しかも栄養価は高く味もいい。
 理想的な救荒作物(饑餓対策になる作物)なのである。まさに天からの贈り物なのだ。
 これは中央アメリカ原産らしい。コロンブスが持ち帰りそれがスペインの東南アジアの植民地に広がり、中国を経て琉球に渡った。そしてまず琉球の饑餓を救った。琉球へ初めてこれを伝えた人(野國総管)は芋大主と呼ばれている。
 その琉球王国は薩摩藩の実質的領土となったが、その時代琉球を訪れた薩摩の船乗り前田利右衛門がこれを持ち帰り薩摩国全土にこれを広めた。
 そして奇跡が起こった。薩摩全土が饑餓から解放されたのである。
「前田利右衛門」というと、イモ焼酎のブランド名にもなっているが、薩摩国に起こった劇的な変化がもう一つある。「酒が作れるようになった」ということだ。
(中略:荒井)
 享保の大飢饉は全国で九十七万人もの餓死者を出した。当時の人口は正確にはわからないが、石高(米の生産高)を元に計算すると二千五百万人程度ではなかったか。そうだとすると日本の総人口の四パーセント弱が死んだということだ。これを現在の人口(1億2500万人)で考えると四百七十五万人死んだことになる。ものすごい数であることがおわかり頂けるだろう。
 ところがこの享保の大飢饉で薩摩国ばかりは一人も餓死者を出さなかったのである。これはまさに奇跡的な出来事だ。そこで吉宗はその理由は一体何なのかと注目した結果、甘藷の存在を知ったというわけだ。
 そして、青木昆陽に命じて幕府の薬草園で正式に試験栽培させた。これが本州四国に甘藷が広く普及するきっかけとなったのである。(中略:荒井)
 吉宗がこれを普及させたことによって、以後東日本では饑餓の餓死者が激減した。江戸中期の九十七万人が「最高記録」というのも、それが理由なのである。

 ただサツマイモは、寒冷地では育ちにくいのです。それゆえ、東北では米を品種改良するしか、饑餓から逃れることはできなかったのです。
 先人の努力で、今の豊かな生活があることを忘れてはいけないですね。

(2011.8.16)