ごんぎつね文献検討③

 文芸研の講座にも参加したくなりました。

(3)西郷竹彦『文芸学入門』(明治図書1995 初出1968)

 一人称「わたし」の視点から書かれた作品には、おおまかにいって二つあります。一つは、「わたし」の体験そのものを語るという作品です。もう一つは、「わたし」の体験というよりも「わたし」がよその人から聞いた話などを、読者、聞き手に話す、語り伝えるという場合。この場合「わたし」のことを「語り手」(話者ともいう)と名づけています。(P.39)

 視点とか話者は、分析批評で使われるものとばかり思っていました。

 「ごんぎつね」は、語り手の〈わたし〉が〈村の茂平というおじいさんからきいたお話〉をみなさんに語り伝えるという場合です。ですから、はじめに語り手が顔を出しても、すぐとちゅうから作品のうしろにひっこんでしまいます。(P.40)

 今回、話者と視点については、しっかり扱っていきたいのです。というのも、6場面で、ごんに寄り添っていた話者の視点が、兵十よりの視点へと変化するからです。子ども自身にその変化を気付かせるためには、話者や視点について、あらかじめ教え、ある程度、それらを元に作品を分析できるようにさせておきたい。

 〈すこしはなれた山の中に〉という文章を読んだときに、「ああ、そうか、すこしはなれたところか」「それがどうした」(笑い)というふうに読んではいけませんね。できるだけ、その「ようす」「ありさま」「かたち」「すがた」というものを、まざまざと思いえがくということが、文芸を読む一つの楽しみなのです。そのとき、「ずっとはなれたところ」ではなく、また、「すぐ近く」でもなく、ほかならぬ(ヽヽヽヽヽ)〈すこしはなれた〉というふうに読むことです。(P.43,44)

 この「くわしいいいかえ」(具体化・具象化・表象化)を子ども自身の力でできるようにさせたい。毎回の気付きの中で、くわしいいいかえを子ども自身が書けるように鍛えていきたいのです。

 《外の目》でかかれているところは、同化体験ではなく、異化体験するところですから、「ごんぎつねはどう思ったか」というよりも「そういうごんのことをどう思うか」というほうがいい。(P.45)

 第1場面の最初の描写は、外の目でごんのことが書かれています。ですから、「ごんはどんなきつねですか」という問いは有効になるわけです。

 ここのところは、読者がごんに同化できるように表現してある文章になっています。つまり、語り手の《外の目》がごんという人物の《内の目》に重なってきている。語り手がごんにのりうつっている。ごんになりきっている。(P.54)

「わたし」を人物名に代入して読むと、内の目と重なっているかどうかが判断できると、西郷氏は言っています。例えば、

 ある秋のことでした。二、三日雨がふり続いたその間、ごんは、外への出られなくて、あなの中にしゃがんでいました。

「わたし」を「ごん」に代入してみます。

 ある秋のことでした。二、三日雨がふり続いたその間、わたしは、外への出られなくて、あなの中にしゃがんでいました。

 ごんをわたしにしても違和感がないわけです。これは、わたしがごんの《内の目》に入り込んでいるということです。逆に外の目だと、どうなるでしょう。

 兵十は、それから、びくを持って川から上がり、びくを土手に置いといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。

「わたし」を「兵十」に代入してみます。

 わたしは、それから、びくを持って川から上がり、びくを土手に置いといて、何をさがしにか、川上の方へかけていきました。

 わたし《内の目》であれば、「何をさがしにか」にはなりません。

 つまり、ごんの《内の目》から兵十は見られている人物だ。つまり対象人物、見られている方の人物の気持ちは見えない。自分の気持ちならわかるけれども、ここは、視点人物が、ごんだということが、こうやって「わたし」を代入してみると、すぐわかる。(P.75)

 視点人物(見ている人物)、対象人物(見られている人物)という用語を教えるかどうかは、思案中です。
 兵十の母の死を知って、ごんが穴の中で独白するところがあります。
「兵十のおっかあは、とことについて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない。それで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのまま、おっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをしなけりゃよかった。」
 この独白の中で、事実は2文目と3文目だけです。あとは、ごんの思い込みなのです。この事実と思い込みを子どもに見つけ出させる授業実践をいくつか見ました。でも、西郷氏は次のように書いています。

 かりに、ごんが自分の行動をたなあげにしてしまうような人物であったとすれば、かれは、自分のしでかしたこととして責任を感ずることはないでしょう。ここには「いたずら」ではあるが、悪意をもった人物ではない、きまじめなところをもったごんの性格が表現されています。十日ほど前の「うなぎの件」と兵十の母の死とを、自分の行動にむすびつけて考える(たとえそれが事実ではなかったとしても)ごんという人物の「ひとがら」「ものごとの見方・考え方」をこそ、とらえるべきなのです。(P.100)

 いよいよ第6場面です。

 「なぜ作者は、ここで、ごんの視角から兵十の視角へときりかえたのだろうか」
という問題です。(P.124)

 この問いについて、西郷氏は明確に答えてくれます。

 ごんの視点のままだと、わたしたちには、兵十の、「こないだ、うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが、また、いたずらをしにきたな」。「ようし」というはげしい怒りと憎しみの心が、じかに見えません。
 しかし、ここで、兵十の視角にきりかわっているために、ああなるほど、兵十はあんなにまで怒っているんだな、とすれば、〈ドンと、うちました〉という兵十の行動が、わかる気がする。自分が兵十の立場にたち、兵十の身になれば、それも無理もない、しかたないことだったんだな、とわかる。(P.127)

 6場面までのお話は、ごんに寄り添って書かれています。もし、兵十に寄り添いながら6場面まで書かれていたら、兵十がごんを打つことが当たり前のことだと思えるのかもしれません。

 作者は、兵十の身になって、そのとりかえしようのないくやしさ、なげきを、あなたにも噛みしめてもらいたかったのではないでしょうか。
 兵十の視角からごんの〈すがた〉〈ようす〉を見るとき、そこに、ごんのいじらしさ、あわれさがひとしお、深いものとして感じられてきます。(P.128)

 最後に、主題について、西郷氏は次のように書いています。

 おたがいにひとりぼっちでおなじような境遇にある人物同士であり、したがって、本来ならばおたがいにわかりあえる間がらでありながら、にもかかわらず、たがいに殺し殺されるというかたちでしか心のかよいあえなかったいたましい悲劇への語り手の痛恨がこの作品の主題になっています。(P.145)

(2008.8.15)