ごんぎつね文献検討④

「理論と実践の疎隔を埋める」ことが、鶴田氏の主張です。

(4)鶴田清司『「ごんぎつね」の〈解釈〉と〈分析〉』(明治図書1993)

 「ごん狐」の場合、〈芋〉や〈菜種がら〉や〈とんがらし〉が農家の生活にとって大切なものであったこと(菜種がら─菜種から油を絞り取ったあとの殻─は肥料や燃料として使われ、とんがらしは食用だけでなく薬用にも使われた)、〈葬式〉が相互扶助の慣行のもとに行われ、村人の社交の場でもあったこと、〈赤い井戸〉が「茶褐色の土管を用いた簡素な井戸」で「うわぐすりを使わず素焼きに近い」ものであったこと(貧しさの象徴)、〈ひがん花〉が多くの地方で別称(死人花など)を持つ「不吉な花」であることは、「ごん狐」の理解に必要な知識である。(P.15)

 これらの知識は、教師が教えるべきことです。

【テーマ】
 詳しくは後で述べるが、人間と狐の敵対的・疎外的な関係の中で〈ごん〉が〈兵十〉に一方的に接近していく姿は、まさに「生存所属を異にするもの同士の流通共鳴」への願いそのものと言える。〈ごん〉が最後の場面で〈兵十〉に撃たれたことは両者の断絶・疎隔の大きさ、理解し合うことの難しさを物語っているが、その後〈兵十〉が〈ごん〉の行為に気づいてくれたことがせめてもの救いである。

 教材観を書く上で、ごんぎつねのテーマをしっかり把握しておきたい。

ごんは、二人の話を聞こうと思って、ついていきました。兵十のかげぼうしをふみふみ行きました。
しかし、少なくとも〈ふみふみ行きました〉という意図的な行為の継続に、〈ごん〉の〈兵十〉に寄せる思いの深さ、親愛の情、心の通い合いを求めようとするいじらしさ、ひたむきさが表れていることには気づかせたい。この時点での〈ごん〉は〈兵十〉に対して〈つぐない〉以上の感情を抱いていると〈解釈〉すること、さらにその〈解釈〉を共有することは「確かさをふまえた豊かな読み」を追求する上で重要である。(P.82)

 いじらしさ、ひたむきさを読むためには、それらの言葉を子どもたちが獲得しておく必要があるでしょうね。

 兵十はかけよってきました。うちの中を見ると、土間にくりが固めておいてあるのが、目につきました。

 〈うちの中を見ると〉という一節について、甲斐睦朗氏は次のように言う。

 「家の中を見ると」には家の中は荒らされていないか、被害はないかといった兵十の疑い、あるいは確かめの気持ちが十分に表されている。

 これは、それまでの〈兵十〉の〈ごん〉に対する見方を〈前理解〉として持っている読者にとっては整合性・妥当性の高い〈解釈〉と言える。〈ごん〉は村でも札付きのいたずら狐であり、村人(兵十)にもその名は知られていたからである。〈うちの中を見ると〉という一節には、銃撃後の〈兵十〉の関心の所在が端的に示されているのである。
 また、向山洋一氏や大森修氏は、この点を実践的にさらに掘り下げている。
 両氏はともに、それまでの授業の多くが、〈ごん〉を撃ったあとの〈兵十〉の気持ちとして、「やった」「とうとうやっつけたぞ」といった「表現から遊離した思い入れ読み」による発言を容認し助長していることを批判する。そして、それに代わって、次のような発問によって文章に即した読みをさせるのである。

 兵十はかけよってきましたね。何を考えて、どこを見たのでしょうか。
 この発問に対して、大森学級の子どもたちは、「またいたずらされたのではないかと考えて、まず、家の中を見た」と答えている。
 先の甲斐氏の〈解釈〉と同様、この「またいたずらされたのではないか」という〈兵十〉の心情を〈解釈〉することは「ごんぎつね」の読みにおいてきわめて重要である。向山氏も指摘しているように、そのときの〈兵十〉は「ごんのことは眼中になかった」という点が、この作品の主題を強調するとともに、その悲劇性を高めているからである。それまでの両者の心の断絶・疎隔が、〈ごん〉よりも〈家の中〉の様子の方に関心を持つという厳然たる事実─に象徴的に示されているのである。(P.86,87)

 長い引用になりましたが、ごんぎつねのテーマに迫るためには、上記の点を扱う必要性が分かったのではないでしょうか。

 以上、①〈ごん〉の孤独と〈いたずら〉の関係、②〈つぐない〉の行為とその拡大、③さらなる〈兵十〉への接近(求愛行為)、④悲劇的結末というストーリーの展開にしたがって、場面ごとの「小さないくつかの核」をめぐって〈解釈〉例を示してきた。これらはそれぞれが相互に関連しながら必然的に「教材全体の核」、即ち「生存所属を異にするもの同士の流通共鳴」という南吉文学固有のテーマ、さらに「同じような境遇にありながら対話の関係が絶たれている人物同士が撃ち撃たれるという形でしか理解し合えないという悲劇」という「ごんぎつね」のテーマを具体的に認識することにつながっている。(P.90,91)

 作品の主題に迫るために、どの部分を解釈させるかを意図的に授業の中で仕組んでいく必要性があります。
次は、鶴田氏が取り上げたい対比としてあげているものです。

〈ちょいと、いたずらがしたくなったのです〉←→〈うわあ、ぬすっとぎつねめ〉
〈うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをした〉←→〈ぬすびとと思われて、いわし屋のやつにひどい目にあわされた〉
〈兵十のかげぼうしをふみふみ行きました〉←→〈「へえ、こいつはつまらないな。」と思いました〉
〈おれがくりやまつたけを持っていってやる〉←→〈神様のしわざだぞ〉
〈そのあくる日も、ごんは、くりを持って、兵十のうちへ出かけました〉←→〈こないだうなぎをぬすみやがったごんぎつねめが、またいたずらをしにきたな〉
〈くりが固めて置いてある〉←→〈うちの中を見る〉  (P.103~105より抜粋)

(2008.8.16)