ごんぎつね文献検討⑤

 次に紹介する本の教材分析は学べます。授業記録の全発問は、発問が次々書かれているだけで、子どもがどう答えたか分からないので、使えません

(5)山口憲明『ごんぎつね~教材分析と全発問~』(ルック2008.1.15)
 発行年月日を見て驚きました。今年出版された本なのです。

 そしてここで特に取り上げたいのが、「墓地には、ひがんばなが赤いきれのようにさき続けていました」という表現です。この一文はこの作品において重要な意味を持っていると考えます。彼岸花の「彼岸」とは、何なのでしょうか。「彼岸」とは、仏教における言葉です。それは死後の世界であり、それは、煩悩・迷いの消えた世界、悟りの世界のことです。墓地=あの世=彼岸の美しさが、この一文、この比喩に見事に描写されているように思うのです。「赤いきれのように」「さき続いていました」など、子どもたちに豊かにイメージ化させたい所です。
 しかし、この後、この彼岸花は、葬列の人々によって、踏み折られてしまいます。「人々が通ったあとには、ひがんばなが、ふみおられていました」ここにある無惨なイメージ、それは、逆に何を表すのでしょうか。「人々が通った」これを人々の行為・行動ととらえます。人々は、日々、この彼岸=理想の世界を踏み折りながら生きている。いたずらをくり返すごん、兵十をぶんなぐるいわし屋、ごんに銃を向ける兵十。悟りとは、遠い世界、煩悩から脱することのできない迷いの世界に人々は生きているのです。この物語は、冒頭から結末まで人が人を傷つける現世・此岸(この世、彼岸の反対)の悲劇を描いているように思うのです。(P.16~17)
 人々が通ったあとには、ひがん花がふみ折られていました。 

 このたった一文の中に、このお話の悲劇性が込められているわけです。この文を事実としてだけ読んでいては、文学を味わうことになりません。それは、久保先生も言われていた「事柄読み」になるだけです。物語の一文一文に込められたものを気付かせるための手だてを考えなければいけません。

 今、学級等で事件などが起った時、子どもたちに事実を確認したりすると、「おれじゃないよ」「わたし、関係ないもん」などという言葉が、しばしば返ってきます。ごんは、葬列の中の兵十を見て、だれに責められたのでもなく、自らを責めていくのです。「ちょっ、あんないたずらしなけりゃよかった」ごんは、誠実に反省し、後悔しているのです。(P.18)

 ごんは、自分のせいだと考えているのです。誰の書いた言葉か忘れましたが、「自分の身の回りで起こることの全てを自分のせい(自分の責任)だと考える」ということが書かれていました。自分のせいだと思うからこそ、「ならば、今からどうするか」が考えられるのです。人のせいにしていれば、自分は何もしなくていいのですから、何も始まらないし、何も変わらないのです。
 兵十のおっかあが死んだことを自分のせいだとごんが考えたからこそ、いわしやくりのつぐないが行われるわけです。物語が進むわけです。

(2008.8.18)