ごんぎつね文献検討⑩

 理論は勉強になります。

(10)大西忠治編/小林信次・加藤辰雄・加藤元康著『『ごんぎつね』の読み方指導』(明治図書1991)
 大西忠治氏の読者へのメッセージは、なるほどその通りだなと思いました。

 私たち、科学的「読み」の授業研究会では、一時間の授業が問題ではなく、教材を一つの単元として全体をどう授業するのかが問題だと考えている。そしてまた、単に授業が成立するというだけではなく、国語教育にはなり得ないとも主張してきた。それはなによりもまず、読みのちからを生徒たちの身につけるような指導として、毎日、毎時間なされているかが重要だとかんがえる。(P.1)

 読みのちからを子どもにつけるにはどうしたらいいのかが、問題です。

 昔から、行間を読む、文脈を読む、紙背に徹す、裏を読む……と言われてきた。それは自覚的ではないが、「深層の読み」を指している読みである。ただその方法を明らかにせず、読みの名人が直観で読み取っていただけなのである。私の読みはそれを自覚化し言語技術教育としてそれを方法化し体系化したのである。そして、その一つが、文学作品の読みの方法であり読みの授業過程である「構造よみ」「形象よみ」「主題よみ」と呼ばれるものである。(P.1~2)

「構造よみ」とは、あらすじをつかむ(作品の構造をつかむ)段階のことです。「ごんぎつね」ならば、次のような構造になります。(P.12~13参照)

 ○冒頭  これは、わたしが小さいときに、……
 ○発端  ある秋のことでした。……
 ○山場のはじまり  そのあくる日もごんは、くりをもって、……
  ☆最高潮(クライマツクス)  「ごん、おまえだったのか。いつもくりをくれたのは。」
 ○結末・終わり  青いけむりが、まだつつ口からほそくでていました。 

 作品をおおまかにつかむのに、この「構造よみ」は適しているのかもしれません。でも、1,2回通読した程度で、クライマックスがどこか決められるのでしょうか。子どもの意見が分かれた場合、それをどうまとめるのかが難しいように思います。検討させるには読みが不十分ですし、ここではまだ教師の解を出すべきじゃないと思うからです。
 さて「形象よみ」とは、作品の一語一語、一文一文をくわしく読むことです。

 導入部は、その作品の事件の背景が語られるという性格がある。つまり、時、場、主要人物、作品の中心的事件の起こるまえの「事件設定」が、主として語られる。
 だから、導入部の形象よみは、「時」「場」「主要人物」「事件設定」の四つの基準によって、読みとるべき文を選び出すことができるわけである。(P.10)

 作品の構造にあわせて、くわしく読み取る部分が変わるわけです。なるほど。 最後の「主題よみ」とは、山場の部と終結部の「形象よみ」をさすそうです。 なぜなら、山場の部と終結部が主題に直結してくる場面だからです。

 山場の部は、作品中、事件の流れのもっとも高揚していく部分を含んでいる。そして、展開部で読みとってきた人物形象、事件の発展は、何か一つの、あるいは複数の理念、感情にむかって収斂していく。この収斂の方向に主題が読みとれる。
 だから、読みとるところ、つまり読み深める文は、展開部と同じように、①事件の発展、②人物(主人物、副人物)の性格、③ふつうの表現とは違っているところ─を扱うが、読み深め方が違ってくる。
 ①事件、②人物、③普通と違う表現の三つのポイントを読みとりながら、その形象のよみの先に、その形象の方向に、その形象の底にある法則的なもの、統一的なものをさぐっていく。それがテーマよみ、主題よみになる。(P.11)

 分かりそうで分からない文章です。
 この本で、「ごんぎつね」の主題を次のように考えています。

 『ごんぎつね』の場合、「ごんと兵十の間に、友情・理解が行われる」のか、あるいは「ごんの孤独な愛の挫折であり、一方的な愛・友情が不成立に終わる」のか、二つの見方がある。「ごんぎつね」という題名ともかかわって、「理解しえなかった愛の悲劇」が、テーマだと読んでいる。

「理解しえなかった」は分かるとしても、「愛の悲劇」というのは言い過ぎではないかと思います。
 さて、ここまでは理論です。でも授業記録となると、教師がいっぱい発問し、子どもを無理に誘導している授業としか思えないのでした。

(2008.9.6)