かけよってきました論

「ごんぎつね」の文章の中で、常に疑問を投げかけられている「兵十は、かけよってきました。」の一文について、私の見解を書いてみます。
 ここで、よく問題になっているのが、視点の問題です。
 兵十の視点ならば「かけよっていきました」になるべきであり、ごんの視点ならば「兵十が、かけよってきました」になるべきだというのです。
 しかも、この前後の文章は、全て兵十になっています。ここだけ、ごんの視点になるのは、おかしいわけです。
「作家もまちがえることがあるのです。」
と言い放っていたのは、野口先生でした。
 これまで読んだ本の中にはなかった観点を見つけました。(誰かが書いているかもしれませんが。)
「誰が誰に駆け寄ったのですか。」
 これは当然、兵十がごんに駆け寄ったのです。
 しかし、兵十は本当にごんに駆け寄ったのでしょうか。
 ごんを撃った後の兵十の関心は、どこにあるかといえば、次の文を読めば分かります。

 うちの中を見ると、土間にくりが固めて置いてあるのが、目につきました。

 兵十は、ごんではなく、うちの中が荒らされていないかに関心があるのです。
 兵十は、ごんに駆け寄ったわけではないのです。
 となると、兵十の視点なら「かけよっていきました」になるのも、へんなのです。兵十はどこにかけよったのですか。
 兵十は、土間にかけよっていきました。 
「土間に」が省略されてるとは考えられません。
 となると、どうしても「兵十は、かけよってきました」は、ごんの視点もしくはごんの近くにいる話者の視点しかありえないのです。
 ここは、ごんの視点だと考える方が、このお話が豊かになると私は考えます。
 これまで、ごんは兵十にいたずらをしたり、いわしを投げ込んだり、くりや松茸を持って行ったり、加助との話に聞き耳を立てたりと、ごんの方から兵十に近づいてきました。
 でも、兵十はごんに近づいていません。うなぎを逃がした時も、兵十は追いかけてこなかったぐらいです。
 その兵十が、ごんを撃った後、初めて、ごんの元へ駆け寄ってきたのです。
 兵十は、ごんへ駆け寄ったつもりはありません。でも、ごんにしてみると、兵十が駆け寄ってきたのです。(ここに両者のすれちがいがあるのですが。)
 次の文を改行して、「兵十が、うちの中を見ると、」とすれば、「かけよってきました」の文は、問題視されることもなかったかもしれませんね。(2008.8.27)