高飛車な題は、おゆるしあれ。
いよいよ明日は学習参観である。
オペレッタ「かさじぞう」は、練習不足。時間がないというのに、勝手なことをする数人の子、または全体の騒々しさに、イライラした一日だった。
イライラしながら、子どもにあたる寸前で、「これは俺の身勝手だ」と気付く。練習不足なのは、練習開始のスタートが遅いのと、指導力の拙さでしかない。
全て担任である私の読みの甘さである。
それで、子どもにイライラするんだから、まだまだ未熟者である。
まあ練習段階を見ていただくつもりで気楽にするしかない。
さて、オペレッタだけなら、だいたい15分~20分で終わる。
残りの時間、何するかを家に帰ってから、考えた。
1つは、青年フェスタのレクリエーションで教えてもらった「全身ドレミ」。つま先が「ド」、かかとが「レ」、膝が「ミ」、お尻が「ファ」、腰が「ソ」、わきが「ラ」、肩が「シ」、頭が「ド」、万歳が高い「レ」である。
両手で階名にあたる場所をさわって、歌うのである。
しっかり歌えば、体育と言えよう。
この全身ドレミで5分。残り15分~20分に関しては、あした…。
(1998.2.19)
今週は、学習参観に向けての一週間だったように思える。
考えてみれば、教師の見栄かもしれない。(そう、その通りだ。)
まあ、やったことはやったこととして、報告してみよう。
昨日は4時間。掃除のあと、全部の机といすを出させて油引きをした。
クラブ指導に行き、その後、油の2度塗りをした。どちらも、残っていた子ども達が手伝ってくれた。モップは2本。1本は私が持ち、もう1本を子ども達が1分交代で油引きする。楽しいみたいだ。
なんかこう書くと、意外と余裕があるように、見える。
しかし、今日も朝から、忙しいのだ。
雨で児童集会は中止。いつもなら朝の視写だが、昨日に引き続き、今日も連絡帳の視写をさせた。
そうそう、教室にはイスだけを入れさせた。いるものは、筆箱と10分間読書用の本だけである。
職朝から戻ると、案の定、走り回ってる子がいた。イスだけになった教室は広々としてるので、走り回るだろう、とは思っていた。
それでも、この時、連絡帳の視写ができてなかった子は、3人だけだった。視写もしっかり習慣化してるようだ。
今日は全員が視写できるまで待った。終わってる子は、読書。
9時5分ごろ、視写完了。それまでの間に、私は連絡帳を見る。親のサインが押してなかった子8人を立たせて、押してもらってくるよう念押しした。
今まで、あまり親のサインをチェックしなかったせいで、サインをもらわない子が多い。昨日は、図書館から借りてきた一冊の本が行方不明なので、そのことを書いた。家で探してほしいのだ。
そして、10分間読書。
終わって、朝のあいさつ。元気だった。
『子どもを変えた親の一言・作文25選』(明治図書)から、「めがねが教えてくれたこと」という作文を読む。
「家にメガネある人?」一人いた。
「3年生になったら、メガネをかける人がいるかもしれませんね」と言って、この作文を読んだ。内容は、メガネをかけて、よく見えるようになったことと、メガネをかけたことで、「めがねざる」と言われるようになった気持ちを書いてる。その子の母親は、「人間は猿から人間になったから、お母さんもテレビに出てる人もよく見ると、猿に似てるんだよ。」というように励ますのである。
いよいよオペレッタの練習。
まず、イスの窓側・廊下側の2列に分けた。参観用である。真ん中が、歌って演技して、踊るところである。そして、1時間目終了。
2時間目、まだ子どもが揃っていない。雨でも、いきいきに行ったり、廊下を遊び回っている。
最初に、昨日、子ども達に書かせたアンケートの回答を紹介していった。名前は言わない。これは、学級通信『プラス1』№148,149を見られたし。笑いもよく起こった。
オペレッタの並び方になって、通し練習。
ストップウォッチで計りながらする。(途中指導では、止める。)
16分50秒。だいたい予想通りだ。
練習中、結構ふざける。注意すると、雰囲気がくずれる。困ったものだ。
でも、主役のおじいさん役の男の子がいい。セリフはよく覚えてるし、なんといっても、声が明るい、恥ずかしがらない。独唱も動きながら、面白く歌っていた。この子によっての成功が大きいように思う。もちろん、まじめな子たちの歌もよかった。(ここは、集団の力。ふざける子もいても、まじめな子がなんとか支えてくれる。ありがたいことだ。)
さて、オペレッタばかりやってられない。
明日は校外進出で、淀川の河川敷に行く。そこで、凧揚げもするのだが、我がクラスだけ、何も作っていない。
2時間目終了前の5分で、作り方を説明。
今回は、準備の勝利。凧の型紙を拡大コピーで、班の数分作ってたのが、よかった。
そして15分休み。もう作り始める子もいた。
これも助かった。時間差ができる方が、教師が手伝う場面で、混まなくてすむ。 3時間目だけで終われば、もう一回オペレッタの練習ができる。そうそう、さきほどのオペレッタの練習には点数をつけた。まず、「0点~10点の人」と私が子ども達に聞いた。自己評価させてたのだ。低い点数に手をあげる子には、「どこがいけなかったのですか?」を聞き、高い点数に手をあげた子には、「どこがよかったですか?」と聞いた。「さわがしかった。」「声が大きかった」とかが出された。そして、私が「80点です。まだ、ふざける人がいたけど、あまり練習してないのに、これだけできるのは、立派です。」と評価した。でも、最後の歌は、まだ練習不足だったので、もう一度、あとで練習したかった。
さて、凧作りが終わったのは、12時15分ごろ。
今日の予定では、4時間目の終わりに、百マス計算・漢字テスト・百人一首をやるつもりだったが、もう無理である。廊下の机を入れ、手紙を配り、明日の郊外進出の説明をし、質問を聞いて、帰る用意をさせた。そして、給食である。
給食後は、机を出して、掃除。机がないと、実にやりやすい。
掃除後、2列のイスに並べ、オペレッタの最後の歌の練習。
一緒に歌わすと、読むように歌う子あり、曲と合ってない。そこで、まず女子から歌わす。さすがに合ってる。そして、男子。なんとか合う。
あと5分の休み時間となった。
急いで、学校備え付けの背広に着替え、教室へ。教卓の上が乱雑であったが、直してるヒマはなかった。廊下のロッカーの上に、学級通信を置く。
5時間目開始の2分前に授業を始める。(昼休みと5時間目の間に準備時間の5分がある。)
まずは、ドレミの歌を歌ってから(そう言えば、朝も一回歌った)、全身ドレミをする。「体育の代わりです。」と私。
いきなりオペレッタを始めないのは、遅く来る人のための時間調整。
今回、オペレッタ終了後に参観に来た人もいたので、オペレッタの上演開始時間を予告していたらよかった。そういえば、一昨年やった時は、プログラムも作った。どうも、2回目は手抜きになってしまう。
オペレッタ、始まった。
なんとか最初から最後まで、止まらずに歌い演じきった。
しかし、子どもの動きはこれまでの練習と違った。親が見てるからだろう。
「雪ん子の表現」といって、音楽に合わせて、それぞれの子が雪・風・木になる演技がある。練習では、軽やかな動きをしてた子が、じっと立ってるだけになってたりした。人の目というのは、気になるようだ。人の目が気にならないほど、練習すべきであった。
全体を通して、ふざける子も少なかった。ということは、ふざける子もいたのである。この時、私が思ったことが、面白い。
「大人というのは、子どもに完璧をもとめすぎる。今を良しとしない。子どもの できてない所に目がいき、いいところが見られない。」と。
加藤諦三著『アメリカインディアンの教え』(ニッポン放送出版)の第一章「批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします。」の中に、次のような記述がある。
自分がケチなのに、そのことがわからない人がまわりにいないでしょうか。そして、こういう人に限って、他人のケチなところを強く非難していませんか。同じ理屈で、自分の臆病なところを認めることができずに勇敢なふりをする人は、他人のちょっとした臆病を許せないのです。
心のどこかで自分に失望している人がいるとしましょう。その人も親になります。人情として、自分の子供に、親である自分がダメな人間だと示したくないのです。すると虚勢を張って自分が立派な人間であるというふりをします。自分がそれほど優れていないということを認められない親、こんな親が子供にいちばん批判的なのです。
親が子どもに批判的になるというのは、自分の自信がないから、ということである。今の時代というは、多くの大人が「自分に失望している」しかし「それを認められない」のではないだろうか。
そして、大人である親が子どもを批判的に見ることで、子どもも自分に失望していくというプロセスを繰り返してしまってるのではないか。
とまあ、こんなことをオペレッタ上演中に思ったわけである。
そう思ったあと、日頃の練習では、私もそうとう批判的だなと、気が付く。
どうも、「親に自分の成果を見せる」という意識が心の中にあって、それで、子どもを守るような考え方で、親を見てしまうのであろう。つくづく自分って、俗物だなぁ、と思ってしまう。(でも、まあいいか。)
子どもの動きでよかったのは、さっきも書いたように、おじいさん役の男の子、まじめに歌ってた女の子。そのほかに、声を出さずに、さりげなく隣の子を注意してる子などもよかった。
子どもをすわらせ、私の評価を言った。「200点です。」いいのだ。
さて、授業は残り20分である。
「2年生ももうすぐ終わり、いよいよ3年生です。3年生になると、新しい勉強 が始まります。理科と社会です。今日は、理科と社会の勉強をちょっとだけし ます。」
理科は、音田輝元氏の考えられた「ブタンガスで楽しもう」である。
(『たのしい授業』97'3№180(仮説社)より)
試験管にブタンガスを入れ、ガラス管を通したゴム管をはめる。
【問題1】ガラス管の先に、火をつけたらどうなるでしょうか。
選択肢は3つ。
「念のために、全員起立。自分がどれにするか選べた人、すわりなさい。」
子どもの予想のあと、大人にも手をあげてもらった。
(子) (大人)
ア 火がつく 5 3
イ 何もならない 6 4
ウ ばくはつする 15 0
オペレッタ終了後、いなくなった親も多い。兄弟の子のクラスに行かれた人もいるだろう。でも、10人はいた。手をあげない大人もいた。
正解は、「ア 火がつく」である。
【第2問】試験管の底をにぎると、火はどうなるだろうか。
予想は、次のように分かれた。
(子)(大人)
ア 火が大きくなる 7 5
イ 火がきえる 12 4
ウ こんどこそばくはつする 7 0
大人の手をあげる数が増えたのは、うれしい。
正解は、「ア 火が大きくなる」である。ちょっとじらしてから、試験管の底を握ると、火がぼうっと大きくなり、子どもからも大人からも歓声があがった。 そのあと、まずは子ども達から、火をつけた試験管の底をさわらせていった。もちろん、私もしっかり試験管を持っている。
「つめたい」の声。
「聖火だ。」の声も。
子どもの次、大人の人にも、さわってもらった。今回は親を巻きこんだぞ。
「このブタンガス、マイナス12度です。」う~ん、知的だ。
さて次は社会。
あるお金の拡大コピーを見せた。双葉が穴の両側に二つあるお金である。
(大河内義雄「五円玉で社会科の勉強」『第3期教育技術の法則化28』より)
「何円でしょう。」
子どもに予想させた。1円玉に5人も手があがったので、「え~!」と、大人の声が聞こえた。5円玉と50円玉にあがった手は同じぐらい。1万円とした子もいた。受けねらいだろう。
ここで、大人は全員5円玉に手をあげた。さすがである。
「正解は、5円玉です。」でも、5円玉の裏の絵は見せない。
「この5円玉の裏は、どうなってるでしょうか。」と問い、小さい画用紙に、5円玉の丸わくだけ描いたものを配り、描かせた。「大人の人に相談しにいってもいいです。」
大人の人に描かせてもよかったのだが、ちょっと時間が足りなかった。
「あと、1分です。」
1分後、私が黒板で正解を描いていった。「1つ合うごとに1点入ります。」 まず稲を描き、「何でしょう。」
正解の米が出たあと、海を描き、次に「五円」を書く。
「あと一つあります。」でも、子どもは降参である。
そこで、参観者にも聞いてみた。
「穴のまわりに、ギザギザみたいのが。」と。その通りである。
「これは何でしょう。」と聞くと、子どもから「歯車」という答えも出てきた。「お米は農業、海は魚を釣ったりする水産業、歯車は工場などの工業をあらわし ています。」
これで、学習参観終了である。
学級懇談会は、6人。となりは5人と言っていた。どこも少ない。
「授業の感想→アンケートについて→万引きについて→3年生について」
という順で。授業の感想では、オペレッタのほめ言葉を無理に聞いた(「明日、子ども達に言いますので」と言って)。理科・社会の授業は「大人でも考えさせられた」「ほうっと思った」と好評。
アンケートは笑いあり、シリアスあり。万引きは『学校運営研究98'2』に乗っていた向山洋一氏の論文を紹介。万引きが起こった時の対処法がバッチリ。
まあ、とにかく終わった。今は、それだけに満足してる。今は。
(1998.2.20)