しりとりジェスチャー

 明日で、今の学級が終わる。
 何日か前から、給食を子ども達の席で食べるようにしている。いつもは、教卓で食べていた。名残をおしんで各班を私がまわったのである。(なぜ、私がそうしてるかは、子どもに言わなかった。)
 子ども達は給食を食べながらも遊んでいた。
 例えば、しりとりである。
 ある班で、「動物の名前でしりとりできたら、1点」というのを私が提案した。「りんご」のあと、「ごりら」と言えれば1点、「らくだ」「だちょう」「うさぎ」というように、しりとりすればいいのである。
 しかし、2年生ではちょっと難しいようだ。すぐ詰まってしまって、おもしろくなくなってしまう。普通のしりとりは、簡単にスッスッとできるから、楽しいのだ。簡単ななぞなぞの方が楽しいのに、似ている。
 さて、ある日、私はしりとりをジェスチャーでやってみた。例えば、「しまうま」の前の子が言ったら、私は手を広げるのである。「マント!」と子どもが当てれば「ピンポーン」と言うのである。「りんご」なら、手で丸を描き、それをかじるまねをする。
 他の子どもは別にジェスチャーしなくてもいい。
 かってに、私がジェスチャーで、しりとりをしているだけである。
 子どもは、そのジェスチャーを見て、当てるから、しりとりに当て物の要素がミックスされたことになる。
 それでも、その内、ある子どもが私のまねして、ジェスチャーでしりとりの物を伝えようとしていた。こういうのが、気楽でいい。
 しかし、この「しりとりジェスチャー」をヘタにルール化して、ゲームにすると、楽しさが半減するかもしれない。しりとりして、しかもその言葉のジェスチャーを考えるのだから、2つのことをすることなるから、難しいのだ。
 大人の私なら、それなりに知的で楽しい。まず、頭の中で、しりとりにできる言葉を考える。そして、その言葉を表すジェスチャーを考えるが、ジェスチャーを思いつかない時は、別のしりとりできる言葉を考えることになる。
 そういう思考を2年生の子どもに要求するのは、酷である。(授業なら、いいかもしれない。だが、気楽な食事中は、ダメだ。)
 たとえ、「別にジェスチャーで伝えなくてもいい」というルールをつけたとしても、ダメだ。なぜなら、そのルールは、「できることなら、ジェスチャーで伝えた方がいい」という意味を含んでいるからだ。
 子どもは、「できることなら」をめざそうとするものなのである。
 めざして、「できない」となるから、楽しさが半減するのである。
 子どもには何も言わず、教師が勝手に「しりとりジェスチャー」するに限る。

(1998.3.23)