親たちの姿勢

 昨日、2階と3階の間の掲示板に飾ってあった習字が、破かれていました。
 朝は破かれていず、1時間目は卒業生を送る会、2時間目は体育でした。
 わかったのが、3時間目の初めです。
 体育が終わって、その階段を上ってきた子ども達は、誰も習字の破れには、気が付かなかったそうです。
 子ども達を破れた習字の所まで連れていき、また教室に戻りました。
『破かれた習字を見て、どう思いましたか。』
 一人ずつ全員に言わせていきました。
「せっかく書いたのを破くなんて、ひどいと思う。」
「どうしてそんなことをしたんだろう。」
「悪いことだと、思う。」など。
 ここでは全員言わすことが大事なのです。誰がやったかわからないからこそ、全員に言わせるのです。
 もしかしたら、やった子がいるかもしれません。でも、全員言わせることで、やった子も自分の非を言うことになるのです。
『先生も、せっかく書いた字を破くのは、ひどいと思います。でも、何か理由があったのかもしれません。なわとびを振り回して、偶然あたったのかもしれません。いろんな事で、イライラしてて、破いてしまったのかもしれません。破いてしまったその子自身が可哀相だなと、思うのです。』
誰がやったかはわからなくても、間違った行動を責めるだけでは、いけないように思います。
 責めるだけでなく、誤ったことをした人も理解していくようにしていかないと、本当の解決には、つながらないように思うのです。

 今、学級の親たちの中には、前担任の過ちを責め、学校の今までの体制を責めるというムードが流れています。
 過去を責めることで、何か豊かなものが生まれると、思っているのでしょうか。
 結局、今までの自分の鬱憤を晴らしてるだけど、子ども達の今の気持ちをくみ取っているわけではありません。
 その点、子ども達の方が立派です。
 子ども達にとって、過去にいろいろあったことは、「ごめん」一つで、すぐに水に流せてしまうのです。
 多少のしこりはあっても、子ども達の方が、実にすがすがしいのです。
 親も前担任に「ごめん」と言ってほしいのかもしれません。でも、自分の気持ちのやり場より、今いる子ども達のために、もっと人を認めていくような態度を示されてほしいものです。

(2000.3.18)