斎藤喜博『授業の展開』(国土社1992,8,25)を図書館の書庫から借りて、1時間ほど読みました。1992年発行ですが、実際に書かれたのは昭和39年(1964年)、なんと私の生まれる前です。
一般的に教師の最初の発問はひどく呑気である。ひどいものになると、何も発問の用意をしていかないで、教科書をひらいて子どもに読ませたり、思いつきの発問をしたりしているのがある。そういう授業が無方向になり、散歩的になり、平板になってしまうのは当然のことである。
そうではなく最初の発問は、その時間の授業展開の核とか中心とかへせまっていくための布石、もしくは暗示として鋭く明確に出すべきものである。したがって最初の発問は、教材とか子どもとかによって、問題点や疑問点を明確に指示するときもあるし、教師や子どもの予定と逆のことを発問して、子どもから引き出すこともあるし、一人の子どもの思いがけないような思考や解釈を紹介し、それによってその時間の核へと学習を出発させることもある。
いずれの場合も、その時間のねらいへと、ずばりと直裁に子どもを入れていくわけである。そういう発問を見つけ出し、子どもに投げつけ、子どもをゆるがして、生き生きと全体を方向づけ、学習を出発させてしまうわけである。(P.154)
現代の教育界でも通用する主張です。(進歩してないということかな。)
(2007.3.10)