からかう

 加藤諦三『アメリカインディアンの教え』(ニッポン放送出版)より。

 カーネギーをはじめ多くの人が、人間の最も大切な願望の一つとして、自己重要感をあげています。自分が、社会や誰かにとって必要なんだと感じたい気持ちです。ところが、からかうということは、この大切な気持ちを傷つけることになります。

「からかう」ということが、暴力と似ているということである。
『教室ツーウェイ』’95年12月号で、師尾喜代子氏が、次のような向山洋一氏の言葉を書かれている。これは、「なぜ男子と女子の仲がよいか」の質問に、向山氏が答えたものである。

 ただ、冷やかしはいじめと同じように許しません。見逃しません。冷やかした子には、
『なあんだ、君は好きな子はいないのかね。寂しいね』
『冷やかすのは、君も本当は、○○ちゃんが好きなんじゃないの』
『冷やかすなんて、人間として恥ずかしいことだよ』
って、言ってやるんですよ」

 これは、男女の仲に対する冷やかしについてだが、「冷やかし」という言葉を「からかう」と変えてもいけそうだ。
『からかうなんて、人間として恥ずかしいことだよ』なのである。
 しかし、大人や教師でも、子どもをからかう人がいたりする。
「気安さ」みたいなものから、そういうからかい言葉が出ているようである。
 名前の呼び捨てにしても、そうだ。
 ただ、呼び捨ての場合は、2つのパターンがあるかもしれない。
 1つは、命令・威圧である。まさに上下下達。体育系の先輩と後輩の立場に、多い。「○○、これ、やっとけ!」
 もう1つは、さきほど「気安さ」である。
 しかし、教師が「気安さ」で子どもと接していいものだろうか。
 教師の一言一言には、そこに教育観が込められており、指導があるのである。「気安さ」という言葉と、教師としての「自覚」は、相容れないものだ。
「○○くん」「○○さん」と、たとえ叱る時にでも、君さんづけするのは、優しさではなく、教師自身の厳しさなのである。  
 子どもに対する「気安さ」は、子どもをあなどっているとも、とれる。
 だからこそ、学級崩壊が起こり、しっぺ返しをくらうのである。

(1998.4.2)