邪馬台国と大和朝廷

 28日(水)の学習参観では、社会(歴史)の授業をしようと思ってます。
 ただ、授業の流れがまだ決まらないのです。
 邪馬台国の卑弥呼と大和朝廷との関係みたいなことを扱いたいのですが、子どもたちの多様な活動が浮かんでこないのです。
 歴史に関しては、特に内部情報の少ない子どもたちに、たくさんの発言をさせるためには、どう切り込んでいいのかが見えてこないのです。
 こういう時は、まずは教科書の本文を打ち込んでみます。

 米作りが日本列島に伝わって600年ほどあとのようすが、中国の古い歴史の本のなかで、次のように書かれています。
「倭(日本)では、いちばん勢いの強い邪馬台国が30ほどのくにをしたがえている。倭はもとは男の王が治めていたが、争いがたえなかった。そこでくにぐにが相談し、邪馬台国の女王卑弥呼を倭の王にたてると、争いが終わって平和になった。」

 男の王では、争いが治まらなかったわけです。では、なぜ、女王なら、争いが治まったのでしょうか。その答えが次の記述なのでしょう。

女王卑弥呼
 卑弥呼は、神のおつげを伝えて人々の心をとらえ、弟が卑弥呼の考えにもとづいて政治をおこなっている。卑弥呼は、人々に姿を見せず、女性のめしつかい1000人が、身のまわりの世話をしている。宮殿には物見やぐらやさくを設け、いつも兵士が守っている。

 神のおつげを伝えることができる存在だからこそ、人々は卑弥呼のお告げに従ったわけです。これを神権政治といいます。
 教科書は、この後、古墳をとりあげているのですが、そこをとばして、大和朝廷の記述を見てみます。

 大和・河内地方では、4世紀から5世紀ごろ、勢いの強いくにができ、ほかのくにをしたがえて日本の国を統一しはじめました。その中心人物は大王(のちの天皇)とよばれました。
 そして、各地の王を大王の政府の役人とする政治のしくみが、しだいにととのえられていきました。この政府を大和朝廷(大和王権)といいます。

 上記の記述を書いている途中に、マルチ発問を思いつきました。
「邪馬台国と大和朝廷のちがいは何ですか。」
「邪馬台国と大和朝廷の似ているところはどこですか。」
 火曜日の社会で、邪馬台国と大和朝廷のことをノート半ページずつにまとめさせて、次の日の参観で上記の発問を出すのです。
 教科書の記述だけでなく、資料集や歴史マンガや本(インターネットは難しすぎました)などから調べさせて、なんとかまとめさせたいものです。
 ちがいと似ているところの中から、日御子、天照大神の話ができそうです。

(2010.4.24)