書かれたこと・書かれてないこと

 国語の研究授業を観ました。
 小松義夫「人をつつむ形~世界の家めぐり~」『新しい国語三下』(東京書籍)の次のところを扱っていました。

屋根がさかさま──セネガル
 エルバリン村は、大きな川が海に注ぐ所の近くにあります。人々は、田で米を作ったり、川で魚や貝をとったりして生活しています。
 この村の中心にある家の屋根は、じょうごのような形をしています。いどをほってもしおからい水しか出ないため、屋根で雨水を家の中に取りこんで、飲み水として利用するのです。
 この家の屋根は、米をしゅうかくした後にできるわらで作られ、近くにたくさん生えているマングローブのみきでささえられています。

「エルバリン村の人たちは、どんなくらしをしていますか。」
と発問され、それが分かる文に線を引かせ、それを発表させていきました。
 すると、全ての文に線が引かれていたのです。
 これは、あきらかにおかしいです。
 例えば、一文目は、土地の特徴であって、くらしではありません。もちろん、この文から、人々のくらしが推定できることは確かです。大きな川があるから泳ぎに行くかもしれない、とかは想像できます。
 ただ、全ての文に線を引いて、それでよしとなるような授業で、国語の力はつかないでしょう。
 その後の授業で、3つの課題を出され、その理由を問うものがありました。

1)家の屋根がじょうごのような形をしています。
2)家の屋根は、わらで作られています。
3)川で魚や貝をとって、生活しています。

 1と3は、説明文の中に答えが書かれています。2は、書かれていません。
 上記の課題の理由をまずは個人で付箋紙に書き、それから班の中で相談させていました。
 その後の班で選んだ理由を発表していました。
 けれど、その理由は書かれたことや類推したことが混在していました。そして、どの理由も正しいと認められていました。「同じです」「いいです」という言葉が、飛び交っていました。
 子どもたちにたくさん発表させようと思えば、どんな意見でも認め、自信をつけさせる必要があるのかもしれません。でも、どれも正解になるなら、国語の力はついていかないでしょう。
 その意見が事実なのか意見なのかを話す人も聞く人も、頭の中で判断しながらするのではなければ、ただのおしゃべりにすぎないわけです。

(2016.1.30)