「「授業びらき」は、「学級びらき」とは本質的に異なる」と、北海道の国語教師・堀裕嗣氏が、『授業研究21 2005年4月号』(明治図書)で書いています。
「黄金の三日間」は、一年の最初の段階で学級のルールを徹底してつくってしまおうとする発想である。もちろんその三日間ですべてが確立するわけではない。三日間でルールが伝えられる。そのルールに従ってその後の学級が運営されていく。子どもたちは「黄金の三日間」で伝えられたルールがどのように機能するのか(先生がどのように機能させるのか)を、その後、ひそかに観察することになる。「いじめは許さない」という言葉を、先生はどのように具現化するのか。「掃除当番や給食当番をしっかりと行う」という言葉を、先生はどのように具現化するのか。子どもたちはそれを見ている。少しでも甘いところを発見すれば、「そうか。このくらいは許されるんだ」と、新たな基準を発見し、つくり上げていく。そしてそのズレが大きくなると、学級は「学級崩壊」への道を少しずつ、しかし確実にたどっていくことになる。
教師の言行一致が常に試されるわけです。恐いです。
しかし、授業は異なる。授業は一般的に、「演繹的な指導」で行われるべきではない。授業では「帰納的な指導」こそが必要とされる。つまり、課題を与える。子どもたちが試行錯誤して課題を解決する。様々な課題解決方法を交流する。もっとも機能的で効率的な解決方法はどれかをみんなで考える。その選ばれた問題解決方法に対して、教師が新たな言葉(=用語)を与える。例えば「倒置」という用語、例えば「比例」という用語、例えば「文=学校」という地図記号。すべて子どもたちの学習活動・体験活動が先にある。試行錯誤が前提としてある。これが授業の原則である。
ルールを示してそれを守らせていく学級指導と、学習活動をさせてから教えていく授業では、アプローチの仕方が真逆なわけです。
もちろん、学級指導も授業のように、活動させてから様々な問題を見つけ、そこからルールを決めていく方法もあるでしょう。でも、それは時間がかかります。
授業をする時間は、時間割の中で確保されていますが、学級指導の時間は細切れの時間を使うしかないのです。
それゆえに、学級開きにおいて、一年間通じるルールを確認していくことが、効率的なわけです。
今回、明治図書の教育記事データーベースで、堀氏の「授業名人がしている国語科カリキュラム・マネジメント」『国語教育 2017年2月号』をたまたま読みました。
堀氏は、国語科の授業開きを古文から始めるそうです。
なぜ古文から始めるのかの主張に、すごく納得してしまい、堀氏の原稿を次々と読む中で、最初の原稿を見つけたわけです。
(2017.3.4)