齋藤孝『座右の諭吉~才能より決断~』(光文社2004.11)より。
たとえばピラミッドも、ただの奴隷の苦役のように権力でやらせていたのでは、おそらくあれほど見事なものは作れなかった。思うに、ピラミッドを作り上げたエジプト人のエネルギーは、神というものを復活させる聖なる儀式に参加しているという強い使命感があったから沸騰したのだと思う。その大いなるミッションが、彼らに活力を与えていた。
私がそうだなと思うのは、「奴隷の苦役のように権力でやらせていたのでは」の部分です。エジプトのピラミッドにしろ、日本の古墳にしろ、奴隷の苦役というより、当時の公共事業ではなかったのか、と思っているのです。
もし、これが無理矢理やらせていることなら、どこかに手抜きがあると思うのです。大仏造りに給料が払われていたように、ピラミッド造りも古墳造りも、それなりの対価が与えられていたのではないと、思うのです。
ピラミッドにしろ、古墳にしろ、大きなものを作るには、大勢の人手がいます。その大勢の人を力だけで抑えつけられるものでしょうか。不満が溜まり、一斉蜂起すれば、権力側をつぶせるかもしれません。
権力側が民衆を従えようと思うなら、民衆を分断するしかありません。集団化させては危険なのです。
だから、集会が禁止されたりするのですから。
(2009.6.17)