見ているのになぜ聞くのか

 正岡子規の「いくたびも雪の深さをたづねけり」の最後の発問をしました。
「話者は、降っている雪を今見ていますか。」
 見ているが18人、見ていないが6人でした。
 見ている派の意見の大半は、見ていないのと雪の深さをたずねたりしない、というものです。
 見ていない派の3人は、次のような意見を言いました。
「見ているなら、何回も雪の深さを聞いたりしない。」
 全員の意見が出尽くしたところで、見ていない派の上記の意見に見ている派はどう答えるのかを迫りました。
 雪が降っているのが見えているんだったら、わざわざ自分で聞くまでもない、という主張だからです。それに対して、面白い解釈が出ました。
「話者は外にいて、雪国の人に雪がどのくらい積もっているかを聞いている。」
 要するに、山深いところで、話者が一歩踏み出すときに、深いとはまってしまうから、これから歩くところの雪の深さを聞いているんだということです。
 こういう解釈もできないことはありません。
「雪降るよ障子の穴を見てあれば」
 同じ時に正岡子規が詠んだ俳句です。正岡子規が病に伏せっていたのでした。

(2010.6.15)