拡散的発問だけではだれる

 2年生国語の研究授業がありました。教材は「スイミー」です。
「まぐろが突っ込んできたときのスイミーの気持ちを考えよう」というのが主発問です。
 気持ちを問う国語授業は好きではないですが、完全否定はしません。
 ただ、何を言っても正解とされるようでは、国語の力はつきません。
 まぐろが突っ込んできたときのスイミーの気持ちを聞いているのに、逃げたあとのさびしいスイミーの気持ちを発表している子も認められ、なんと腹を空かせたまぐろの気持ちまで肯定されてしまったのです。
 問いに正対していない答えを認められるようでは、国語力はつきません。
 では、どうすれば、よかったのか。
「まぐろが突っ込んできたときのスイミーの気持ちを考えよう」というのは、拡散的発問です。多様な答えが出ます。(私としては、スイミーは逃げるので必死で何も思っていなかった、と考えるのですが。)
 次に、集中的発問をすればよかったのです。
 誰かの発言を取り上げ、それに賛成か反対かを文章に即して問うのです。
 多様な発言を引き出し子どもの内部情報を蓄積するために拡散的発問があり、授業のねらいを達成するために集中的な発問があるのです。

(2005.7.6)