どうでもいいよ

 3年国語「海の光」の授業の続きです。

 貝ひろいの朝、おじいちゃんは畑に出たきり、なかなかもどってこなかった。
 畑に出ると、おじいちゃんは小さなトマトを何度も指でなでていた。
「おじいちゃん!もう早くしてよ。」
「すまん、すまん。トマトがやっとこさ実をつけてな。ばあさんが大すきだったん だ。」
「トマトなんてどうでもいいよ。早くしてよ。」

 貝ひろいに早く行きたいふみやは、おじいちゃんのトマトへの思いが分かっていません。
 おじいちゃんにとって、大事なトマト。なぜかといえば、亡くなったおばあちゃんが大好きだったトマトだからです。トマト=おばあちゃん、なわけです。
 おじいちゃんにとって、とても大切なトマトをふみやは「どうでもいいよ」と言っています。
 おじいちゃんに感情移入すると、ふみやはとんでもない子になります。
 そこで、ふみやの最初(家でのこと)を振り返らせます。
 家では、お母さんもお父さんも、生まれてくる赤んぼうのことばかり考えていて、ふみやのことを見てくれない。まるで透明人間になったみたいな状態です。
 自分のことを構ってもらえないさびしさが、ふみやにはあるのです。だから、トマトを何度も指でなでて大事そうにしているおじいちゃんを見て、また自分が構ってもらえてないことを感じてしまったのでしょう。
 深読みかもしれませんが、おじいちゃんの思い、ふみやの思い、両方ともとりあげていく必要があると思うのです。おばあちゃんを亡くして一人で生きているおじいちゃんも寂しければ、両親に構ってもらえないふみやも寂しいのです。
 寂しいもの同士が傷つけ合う悲しさが、最初にあるわけです。

 お父さんからの電話には、ぼくはなかなか出る気がしなかった。
「まだ、生まれないそうだ。」
「どうでもいいよ。赤んぼうなんて。」
 おじいちゃんは、さびしそうな顔でぼくを見た。

「どうでもいいよ。赤んぼうなんて。」と似ている文として、「トマトなんてどうでもいいよ。」を見つけさせました。
 そのあと、「まだ、生まれないそうだ。」を言っているのが、お父さんかおじいちゃんかで、意見が分かれました。
「出る気がしなかったと書いてあるけど、出なかったとは書いてないから、電話 には出た。」というのがお父さん派の主な理由です。
「出る気がしなかったから、おじいちゃんが出た」というのが、おじいちゃん派の理由です。(伝聞形式だから、おじいちゃんが正解でしょうね。)

(2007.7.15)