「やまなし」の評論文②

 10枚は、パソコンで視写するだけでも、時間がかかります。これを子どもたちは考えながら書いたのですから、たいしたものです。

三、登場人物
 この話で、出て来ているのは、かにの子どもらと、かにの子どもらのお父さんと、入れるなら、かわせみです。そして、主人公は、(やまなしとかは入れずに)かにの子どもらだと思いました。でも、そのかにの子どもらが会話して言っている事は、なぞの事ばかりです。そして、なぜ、「かに」の子どもらなのかもなぞの一つです。

「私」も登場人物といえるのですが、その考察はできていません。

四、なぞ
 私がこの「やまなし」でなぞだと思ったのは、いくつかあります。クラムボンやイサド、そして、やまなしが、私の中では、なぞだと思いました。
 クラムボンの事を宮沢賢治は、何と伝えたかったのかなと思いました。でも、私は、クラムボンは、あわみたいなのかなと思いました。だから、賢治は、「数限りない」と言う事を伝えたかったのかなと、私は、思いました。
 次に、イサドです。イサドは、町の名前だと思いました。でも、ただの町だったら、かにの子どもらも行きたくないと思うから、遊園地みたいな、楽しい所だと思いました。でも、この言葉は、賢治が想像して作った言葉だから、意味はあると思うけど、何と伝えたかったかは、分かりません。
 最後に、やまなしです。この話の題名でもあるから、絶対、意味はあると思います。やまなしは、実際でもある果物だけど、その果物とはちがうと思います。幸せを呼ぶ、やまなしだから、こわい物では、ないと思いました。絶対、意味はあると思うけど、やっぱりなぞです。
「やまなし」は、賢治が想像した物とかが出て来ているから、なぞは、たくさんあるけど、とても、面白い話だなと思いました。

 この「なぞ」の項目は、よく書けています。クラムボンをあわとして、数限りないを表していると考えているところが鋭いです。イサドは、遊園地みたいな所は、筋道立てた推理で考えられてます。

五、五月
「やまなし」は、五月と十二月に別れています。でも、なぜ、五月と十二月にしたのだろうと思いました。まずは、五月についてです。「五月」は、季節でいうと、「春」だと思います。そして、「花」という言葉が多くて、日光が出て来ています。朝で、魚も多いです。まさに、「春」という感じです。
 でも、五月ではなくて、四月や六月でもいいと思いました。だから、ここにも意味があると思いました。

 四月や六月でもいいと考えられるところがいいです。もう少し突っ込みがほしかったところです。

六、十二月
 次は、十二月についてです。十二月は、季節でいうと、冬だと思います。そして、五月とは反対で、「花」という言葉が少なくて、五月では「日光」だったけれど、十二月では「月光」です。あと、夜で、魚がいません。
 そして、明らかに「冬」と思ったのは、五月では、「青白い水の底」、十二月では、「冷たい水の底」だった事です。
 五月では、あった物が、十二月では、ないという事が分かりました。

 五月と比べるのは、七の項目にもっていくべきです。

七、五月と十二月の対比
 五月と十二月を比べてみました。例えば、「日光と月光」や「青い幻灯と私の幻灯」です。中でも重要だと思ったのは、「日光と月光」だと思います。なぜなら、日光がないとクラムボンがなくて、月光がないと、やまなしがないと思ったから、それぞれの土台になっていると思ったからです。
 おかしいなと思ったのは、「かわせみとやまなし」です。なぜなら、題名が「やまなし」でも、そんなの関係ないと思ったからです。
 でも、私は、「日光と月光」が一番重要だと思いました。

 なぜ日光がないとクラムボンがないのか、なぜ月光がないとやまなしがないのかを論述しなければ、一方的な主張で終わってしまいます。
 もう少し、読者を納得させる展開にすべきです。(つづく)

(2011.3.23)