赤い林檎

 山村暮鳥の「りんご」の詩は、雲という詩集に載っています。
 そこには、「りんご」の詩につづいて、りんごを題材にした詩がずらりと載っています。

 例えば、右のような詩があります。
「赤い林檎の夢」は、いい夢であり、大人になったら二度と見られない夢だといっています。
 暮鳥は、林檎というものをすばらしいものだと、思っているわけです。
 となると、「日当たりにころがっている林檎」は、すばらしいものであり、それを見ている自分はどうなのだ、ということになります。
 林檎が日当たりにいるなら、自分は日に当たらないところにいるとも考えられます。
 また、時代的背景として、当時、林檎はとても高級品で、暮鳥のように貧乏な詩人には、めったに手に入らないものだと思います。
 林檎は、暮鳥にとって憧れの対象であり、人生の夢なのかもしれません。
 そんなことを作品と作家の人生から自由に考えるのも楽しいものです。

(2010.9.18)

 山村暮鳥の「りんご」の詩から、「作者は幸せか不幸せか」を問いました。
 幸せ派が8人で、不幸せ派が17人でした。
 不幸せ派の多くの意見は、「かかえきれないこの気持」が、悩みとかマイナス的なものであるから、というもの。
 それに対して、幸せ派は、「かかえきれないこの気持」が幸せな気持ちかもしれない、と主張します。また、日当たりという言葉が出てくるのは、幸せだからとも言っていました。
「もし不幸せなら、日当たりにという書き方にならない。」
 もし○○なら、□□という書き方にならない、という主張の仕方は鋭いです。
「りんごをうらやましそうに見てる」という不幸せ派の意見は、作者がりんごをどう捉えているかを考えたわけです。
「日当たりに林檎があるとしたら、話者は日向にいますか、日陰にいますか。」
ということを私の方から、問いかけました。
 私の問いかけの前に、そういう視点で物事を捉えられる子になってくれることを期待しているのです。
 その後、山村暮鳥の「赤い林檎」という詩を紹介すると、「これは不幸せだ」とつぶやく子がいっぱいました。面白いものです。

(2010.9.22)