雄飛「仲麻呂」

『歴史の群像12 雄飛』(集英社)1984.10.10の中で、陳舜臣が「阿倍仲麻呂」の伝記を書いています。そこから、引用します。

 仲麻呂自身は冒頭の歌一首と詩二篇しかのこしていない。日本と唐の文献のなかに散見する記述と、唐の詩人が彼に贈ったいくつかの詩などが、阿倍仲麻呂像をつくる数すくないよりどころである。(P.39)

 歌一首というのは、「天の原~」のことです。
 陳氏の推理によれば、仲麻呂という人は、「たいそうハンサムであり、神童と謳われるほどの素質をもっていた人物」だということです。
 仲麻呂は、吉備真備とともに、留学生として唐に渡りました。
 真備は日本に戻ったのに、仲麻呂は戻ることを許されませんでした。
 どうやら、二人の学び方の違いがそこにはあったようです。

吉備真備はおもに経学や実学に感心をもち、詩文にはそれほど力をいれなかったのではにかとおもう。彼が唐から持ち帰って朝廷に献じたのは、『続日本紀』によれば、唐礼百三十巻、大衍暦(たいえんれき)のほか、測影鉄尺(そくえいてっせき)、銅律管(どうりつかん)など、実用的なものが多い。留学中も、帰国後、役に立つことを学ぶ姿勢をもちつづけたのではないだろうか。詩文などに時間を空費するよりは、文化的にまだ後進国であった日本のレベルをあげることのほうが、より大切であると考えたのであれば、それもりっぱな見識というべきであろう。阿倍仲麻呂は唐の科挙に及第し進士(しんし)となったが、吉備真備については、そのような記録はない。
                              (P.44)

 才能豊かゆえに阿倍仲麻呂は、日本に帰ることを許されなかったのです。
「彼のような人物を、まだ文明のおくれている日本に返すことはない。本人にとっても気の毒であろう。」
陳氏は、仲麻呂が帰国できなかった理由を2つあげています。
(1)彼の才能や人柄を惜しんで、その帰国を好意として妨げようとした人が多かったから。(それが上記の言葉に反映しています。)
(2)唐の朝廷は、いわゆる「盛唐」期を迎えて、人材を必要としていたから。
 仲麻呂は、好人物で有能ゆえに、帰国できなかったわけです。
 帰国を断念した仲麻呂がこのとき作った詩が、次のものです。

慕義名空在  義を慕い名は空しく在り
愉忠孝不全  忠を愉(たのし)まんとすれば孝全(まった)からず
報恩無有日  報恩日有る無く
帰国定何年  帰国、定めて何(いず)れの年ならん (P.53)

 その後、仲麻呂は、唐の国の中で出世していきます。
 後進国での仲麻呂が出世できるほど、唐の国とは懐が大きかったのでしょうか。

 唐は外国人をよく用いたというが、それは軍職に多く、文官ではそれほど多くない。懐柔のため、名目的な官職を外国人に授けることはあっても、もちろん実職にはつけていないのである。(中略:荒井)朝衡─阿倍仲麻呂が秘書監になったのは、いくら外国人任用に寛大であった唐でも、異例のことであったといわねばならない。
 五十をすぎて、おそらく妻子もあったにちがいなく、そのまま高官として、世界文明の一大中心である長安で、安穏に生活しようとおもえばできたはずである。それなのに、仲麻呂は帰国の意思をもちつづけた。  (P.58)

 そして、帰国するための遣唐使船に、仲麻呂は乗るのです。
4隻の船のうち、3隻はなんとか日本に着きます。(そこに6度目渡航の鑑真も乗っていました。)
 しかし、仲麻呂の船はだけは、日本に着けなかったのでした。

(2003.8.17)